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若松の軍艦防波堤 柳は「桃型駆逐艦、初代柳」。これにまつわる誤解の源について

 投稿者:軍艦防波堤連絡会  投稿日:2019年 5月 5日(日)09時52分30秒
編集済
  若松の軍艦防波堤を構成する艦のうち、
柳は
百年以上前の大正時代の桃型駆逐艦であり、
第一次大戦時、第二特務艦隊に参加。
地中海に遠征して人命救助に大活躍しました。

若松の軍艦防波堤 柳を実測すると、全長は約86mであり、
北九州市立中央図書館・若松図書館所蔵の
駆逐艦柳 設計図(複写)(大正5年11月4日出圖。初代柳)とも一致します。

これに対して、「昭和の松型駆逐艦、二代目柳ではないのか、という誤解」が昔から存在します。高塔山の慰霊碑の記載もこれです。
ところが、
Wikiによると二代目柳は全長100mであり、
若松の軍艦防波堤では86mしかなく、全く長さが足りません。違う艦です。

また、松型、二代目柳は艦尾が大破したと記録があります。しかし
若松の柳は、とがった艦首から丸い艦尾まで明瞭に姿が残っており
艦尾は大破した様には見えません。

(青森県大湊には、松型駆逐艦、二代目柳の慰霊碑が現存します。
艦尾が大破して「擱坐」した松型柳を、わざわざ海底から引き上げ、はるか青森から若松まで曳航した?事になりますが、これはどうにも奇妙な長旅です。)

また軍艦防波堤に詳しい方から次のような趣旨の指摘をいただいています。
『二代目の「太平洋戦争に参加した」柳は、大湊で解体された。
(若松区の柳の)艦首形状は大正期以前の旧式艦特有のもの。若松区の柳は初代に間違いない。 』

以上の事から、若松の軍艦防波堤 柳は大正時代の「桃型駆逐艦、初代柳」と言えます。
===============================================

今では写真一枚目↓の慰霊碑記載が、事実と違う
とわかっています
が、この記載が通説だった時代は長く、ネット普及まで多くの方が信じて疑わなかったようです。

その一端が見える文書を紹介します。

1966年3月1日 玉井政雄(若松の芥川賞受賞作家、火野葦平の弟) 著
「北九州の伝説と史話」86ページより引用
----------------------------------------
駆逐艦「柳」は、一、二六〇トン級のもので、すでに昭和十七年後期設計されていた。速力は二八ノットである。大阪の藤田造船所で昭和二十年一月に竣工し、第五三駆逐隊に編入され、北東方面部隊に属し青森県大湊港に進出した。七月十四日、敵空母機動部隊の艦載機と海峡で戦闘をまじえ、後部に爆弾をうけ、大湊港外の葦崎に乗りあげ、そのまま終戦を迎えた。
【中略】
「涼月」「冬月」「柳」の三艦は、昭和二十三年、洞海湾の入口に身を沈め、いまは港を風浪から守る平和な任務についたのである。
「軍艦防波堤」
【引用終わり】--------------------------
(※これは、青森に擱坐した、「太平洋戦争に参加した」松型柳の記述であり、若松の軍艦防波堤の説明として持ってくる事は、申し訳ありませんが事実誤認です。)

1966年は昭和41年ですから、軍艦防波堤が建造されて18年ほど経過しています。
慰霊碑は昭和51年に建立ですから、それよりずっと昔の文書です。
若松の文士がこのように著書で述べてあるのを見ても、
誰もが疑いなく、若松の柳は第二次大戦の柳だと確信していたことがうかがえます。
これは歴史上精一杯の調査の上の致し方ない誤解と考えます。
ネットの発達した今の私達は、通説を鵜呑みにせず、資料を根拠に考察すべしという貴重な教訓だと捉えてみてはどうでしょうか。

玉井政雄先生や、慰霊碑建立された方々に対して、これは大変不遜で失礼な書き様かも知れず、失礼に当たりましたら申し訳ございません。お詫び申し上げます。
(写真をクリックすると、大きく見えます)
 

軍艦防波堤の看板 転記

 投稿者:軍艦防波堤連絡会  投稿日:2019年 5月 5日(日)08時59分52秒
編集済
  軍艦防波堤の看板に、松型駆逐艦という事実と違う記述があるのでは、という声が語る会で出ておりました。
そこで看板を撮って改めて書き起こしました。
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軍艦防波堤
 この岸壁に出ている船体は、旧日本海軍の駆逐艦「柳」です。
 戦後間もない昭和二三年九月他の駆逐艦「冬月」「涼月」とともに、洞海湾を響灘の荒波から守る防波堤として沈められました。
 北側の響灘は埋め立てられ防波堤の役割は終わりましたが、今でも「軍艦防波堤」と市民に呼ばれています。
 「冬月」「凉月」の二艦はこの手前の護岸の中に埋没していますが、この両艦は昭和二十年四月「沖縄特攻作戦」の戦艦大和の直衛艦として出撃し大破しながらも奇跡の生還を果たした艦です。
 なお高塔山中腹にこの三艦の戦没者慰霊碑が建立されており、詳しい説明が書かれております。
               北九州市港湾局
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柳についての記述は簡潔で、特に何型かという説明はこの看板にありません。

この看板は平成六年に設置されたと推定。表面劣化のため平成12年頃に建て替えられました。

写真↓をクリックすると大きく見られます。
 

異邦人、防波堤にて

 投稿者:軍艦防波堤連絡会  投稿日:2019年 5月 3日(金)17時13分33秒
編集済
  短い小説風に心象風景の描写(フィクションです)

 新時代を迎えたばかりの祝日、私は軍艦防波堤に立っていた。連休で釣り客が所狭しと押し寄せていた。柳に上ってきた小さな小学生らしき男の子が、「ここに大砲があったとよ」と父親に自慢気に言い放つ。私は一瞬ぎょっと立ちすくんだ。身バレしてしまうのかとの不安が、自分勝手に溢れて戸惑う。
 この日私は、凉月の船体右舷の痕跡である、岸壁の僅かな膨らみ(ただの岸壁なら本来直線であるべきところが、海側に微かに膨らんでいる)と、先日師匠から教わった凉月左舷のコンクリート壁の屈曲を、写真に納めようとしてここを訪れたのだった。
 そんなオタクな事をしていても、今までなら釣り客ばかりで、私の行動の意味を誰も知らず、私は透明人間として静かに気楽にのびのびと活動できていた。しかし小学生の一言は、私の行動の意味を気づかれかねないという、一見意味のない、しかし小さな不安を私の中から引きずり出していた。柳の話題を嬉しそうにその子供に持ちかけて孤独を癒やすなど、およそ私には似つかわしくない。
 釣り人の多さにも辟易しつつ、何枚かの写真を納めたが、落ち着かず私はその場を去る。冬月の艦尾付近に移動、撮影。ここはさすがに人はいない。随分昔、冬月に縁のある方をお連れしたら、碑も何もないと随分憤慨された場所だ。本当に何もなく長居すると不審者に見られかねない。やや離れた場所にあるファミリーマートまで逃れ、お茶のペットボトルをPayPayで買って落ち着こうとした。トイレも済ませスマホを見るうちに、数年前NHK撮影クルーからあの場所で問われたことを思い出していた。
 「十年先には、どのようなことをしていたいですか?」ありがちなマスコミ調の問いだったが、私は素直に答えたものだった。
 「私の説明など必要もなくなり、若松の誰でもが普通に軍艦防波堤を知っていて、当たり前のようにこの地の由来を話しているようになって欲しい。」
 当時私は取材に当惑しており、マスコミが必要とする度に引っ張り出されることに小さなうんざり感と、他に説明する人のいない、なぜ降ってきたのかもよくわからないが、ある種の使命感?みたいなものを抱いていた。自分以外の人にこの地の事をもっと知ってもらえれば自分はのんびりできる。私は駆り出されるのが面倒だった。
 私の願いは年月を経て、とうとう本当に自分の目の前の小学生によって、単なる日常として実現したのだった。こんなつもりではなかった。連休ならではの釣り客の多さに圧倒もされ、私はスゴスゴとその場を去る事と成り果てた。私の居場所はもう、段々ここではなくなりつつあり、ここは当たり前の観光スポットになろうとしているのだろうか。
 私は次なる居場所を求め、小倉の地下深く眠る、何十年も人の踏み入れていない、しかし日常の隣にあるトンネル空間へと迷い込むのだろうか。そんな空想が一瞬かすめた。
 一昨日始めたPayPayのサービスに貰った1000ポイントの残高が302円。何ヶ月か先に今買ったお茶のポイントが二割戻ってくるらしい。そんなのが日常の、令和の憲法記念日だった。帰りのドライブ、私は老後の家賃の捻出に頭を悩ませることで日常に戻り始めた。
 

第十回 軍艦防波堤を語る会 報告(要旨) 2019年・平成31年4月7日 旧古河鉱業若松ビルにて

 投稿者:軍艦防波堤連絡会  投稿日:2019年 5月 2日(木)19時26分23秒
編集済
  【報告書
第十回 軍艦防波堤を語る会 要旨。平成31年4月7日 旧古河鉱業若松ビルにて】

軍艦防波堤を訪問する場合、突風に注意し、海に転落しないよう注意喚起。
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会が2010年に始まり、今回が第十回と挨拶。
軍艦防波堤は、柳、凉月、冬月と3つの駆逐艦で構成。このうち凉月、冬月は戦艦大和とともに沖縄海上特攻に出撃、多くの犠牲者を出した。柳は百年以上前に地中海で活躍。

駆逐艦凉月の元乗組員、溝江美代次さんについて紹介。
戦友会である凉月会を何十年間もお世話した。
晩年、病床で凉月の駆逐艦長、平山敏夫中佐の孫、Sさんと会見を果たし、
その後永眠。それを契機に語る会が10年前に始まった。

溝江さんの肉声(録音)で
(軍艦防波堤を)残していってほしい。二度と戦争はしてはいけない。
とのメッセージ。

1945年。74年前の4月7日は沖縄海上特攻の日。
戦友会凉月会は毎年この日に何十年にわたって行われてきた。
この語る会もそれにちなみ、4月7日以前の日曜日に実施。
若松区高塔山にある慰霊碑は犠牲者の鎮魂のため(若松海友会が)建立。
全員で戦争犠牲者に1分間黙祷。

数十年前の慰霊碑建立趣意書の朗読。

(原文画像)

主催者が20年前に軍艦防波堤と出会い、手作りした軍艦防波堤の絵本を10年ぶりに朗読。(軍艦防波堤紹介のため)

軍艦防波堤の位置紹介。

軍艦防波堤を構成する三艦の模型による配列の説明
さらに大和の模型。大和は凉月、冬月と共に沖縄海上特攻作戦に参加

駆逐艦凉月 元乗組員、太田五郎さんと宮原明さん(二人共故人)紹介。
沖縄海上特攻の鉢巻を持つ写真。お二人はこの会場で十年前語った。

【太田さん肉声(録音)】沖縄海上特攻で、日本に飛行機の護衛がほぼなかった。敵航空機に対応できず、直撃弾受け戦死者多数。後進で佐世保軍港に帰還。

【宮原さん肉声(録音)】
後進帰還時、船は前方の部屋に三名が犠牲になり、部屋を守るためドアを閉め、窒息で死亡。その部屋の浮力で凉月は沈まず帰還。

このような言葉を受け十年間、会を続けた中での出来事を順次紹介。

凉月の駆逐艦長の孫Saさんが「軍艦防波堤へ」を出版。
先程の手作り紙芝居を元に、Maが「若松軍艦防波堤物語」を出版。
来場者、Hさん提供の、今は埋もれている冬月と凉月の写真、柳の情報など掲載。
現在視認可能は柳の姿だけ。

軍艦防波堤研究の第一人者、Moさん駆逐艦柳の設計図発見、会に寄託。
実物は年に一度この会で展示。

駆逐艦柳の元乗組員、平田重成さん紹介。百年以上前に地中海で付けた日記、顔写真。

Hiが、入手した駆逐艦柳の写真(1907年撮影、上海)紹介。
海外のネットオークションで、米ワシントン経由で入手。
やなぎ、かし、もも、と読める。
柳と共に地中海で活躍した駆逐艦。当時日本の最新鋭艦。

上と別に最近新たに発見された柳の写真紹介。
来場者が実家倉庫を解体した際、上海事変で警備中の柳の写真アルバム発見。

駆逐艦冬月の元乗組員、Oさん来場。戦艦大和が冬月の真横で沈む様子を語った。
【録音を再生】
船(大和)が傾斜して、左に傾き、甲板をずり落ちる影が見える。
最後は弾薬庫に火が入り、水柱、火柱、上がった。
その後、隊員らの救助に当たり、佐世保に帰還。
人名の尊さを、本当に感じた。本当に申し訳ない。
【再生終わり】

Oさんのお話をこの会場で聞いた高校生が、思いを本に記載。
十年の間に若い世代が軍艦防波堤を受け入れるようになる。

2013年に始まったPCゲーム、艦隊これくしょんで若者が戦争に関心を向けるようになる。その数、数百万。

綿密に調査された艦船の性能や戦歴など、戦争を具体的に題材にしている。
凉月も2017年にこのゲームに登場。
艦これをきっかけに戦争に注目し、はるばる軍艦防波堤を訪れる若者も多い。

艦これを見ての来場者は、会場約七十名前後のうち三分の一が挙手。

駆逐艦凉月の駆逐艦長 平山敏夫さんの孫Saさん、主催者の一人Maと十年前の語る会設立当時を語る。
Sa:11年位前「軍艦防波堤 凉月」と検索
Maとメールのやり取り、二ヶ月後に息子を連れて初めて会見。
太田五郎さん、宮原明さんにも会見。
凉月が係留された相浦も探索。
その経緯も含め「軍艦防波堤へ」を執筆。

Saと病床の溝江美代次さんの会見は平成20年。
Saが艦長の平山敏夫の孫と告げ、その時だけ溝江さんは何年ぶりにか、はっきりと眼を開け、「お懐かしゅうございます」と声もかけられた。

現在語る会は、様々な情報や物、資料を持ち寄る状況がある。

Saの家にも凉月の大きな模型や、
平山艦長に戦後、乗組員の方が書いた手紙
(坊ノ岬沖で被弾後、沖縄行きか佐世保帰還かを艦上で議論。若い将校、このまま突っ込めと主張、軍刀を抜いて艦長、先任将校に迫ったシーンあり。)

具体的な物をまとめ、何時でも誰もでもが見れる形にするのが、最終的に望まれる。

凉月元乗組員、太田五郎さんの実子Oさん語る。
父は横須賀の砲術学校を卒業し長崎の造船所、建造中の駆逐艦凉月に艤装員時から乗り組み、昭和20年4月7日沖縄特攻隊、配属先は二番砲塔旋回手。
始めから最後まで凉月に乗り組んでいた一人。
防波堤になり、その後解体された凉月鉄材でできたネクタイピン紹介。凉月そのもの。

最近は護衛艦「すずつき」できあがった時、元乗組員3人と家族が招待受け、艦長自ら艦長室まで案内。大変感激。

戦後七十年で、あちこちから取材受けその一つ、
太田五郎さんの記事が掲載された佐賀新聞。
眼の前で大爆発した巨艦、戦艦大和の最期と掲載。

また、凉月は昭和19年1月16日、宮崎県東方100km地点で米軍から攻撃受け、船は同時に前後を破断。約250人が死亡。
艦橋部は沈没を免れる。

父はその一週間前に配置替えのため偶然生き残る。
非常に心残りあり、何とかそこに慰霊碑建立をと希望するも、丁重に断られる。
1月16日、十時半、父と一緒に太平洋に向かい手を合わせた。

父はそれでも、自分は生き残りの兵の一人だから、亡くなった戦友たちを弔いたい。
自分の身代わりに亡くなったからと常々申していた。
何らかの形で実現できないか。父は心の中に溜まっている。
と発言。

凉月元乗組員、宮原明さん実子Mさん
沖縄特攻時絞めていた鉢巻の実物を提示。(会の後、語る会に寄贈される)
その時、大変仲の良かった戦友が艦橋付近で爆撃にて死亡。
父が郷里に帰った時、戦友の家族に、あなたの息子さんは亡くなられたとか、言えなかった。
戦争は、人と人の殺し合い。してはいけない。
と発言。

後の時間は全部来場者のための時間
軍艦防波堤を語る会は、皆さんのご意見、ご質問で成り立つ会。

Q:凉月の「すず」は、二スイか、サンズイか。

A:海軍の正式な命名ではサンズイ。太田五郎さんの履歴書はサンズイ。
一部資料ではニスイ、戦友会もニスイ。【非公式だが長く使われた。】
【ニスイの凉月は、漢字表記上の「方言」と考えてはとの提案、後日出される。】

発言:私あと三ヶ月で95歳。
兄が大正9年生、23歳の昭和19年の1月25日に南太平洋で魚雷で死亡。
葬式、遺体は紙切れ一枚で骨箱のみ。

佐世保海兵団から横須賀の砲術学校、巡洋艦の妙高乗艦。
涼風という駆逐艦にも乗艦。眼の前で戦友が爆撃で死んだ。

昭和18年。私が中学生の頃、兄に誘われ鐘崎の浜にてボート乗る。別れに来たんでしょう、半年して死亡。
そのボートの中で、セーラー服や海軍さんの靴について等話し、親孝行せよと、
兄は靖国神社に祀られてるが、行っても声はかけてくれない。
こういう悲惨な戦争が私の生涯。

Q:凉月とは涼風と同じか。

A:涼風は白露型の10番艦。
凉月は秋月型の3番艦。
凉月と涼風は別の艦。

発言:私は地元の人間。年は八十以上。6,7歳の頃、この(軍艦防波堤の)船の上で遊んだ。ワタリガニが多く採れた。

大和を護衛してあんな遠い海から、生きて帰ってきた。あんな小さい船で、
あの艦はナイフみたいな細い艦。【高速化のため】
Q:乗員は何名ぐらいか。

A:380名ほど

Q:どこで造船か。A:佐世保。Q:大和はどこ。A:呉です。

発言:終戦頃、八幡製鐵所、爆撃受けた。
【製鐵所を守るため猛煙幕を焚いたため】
若松は煙で太陽が月に見えた。
【煙は翌日まで残り】B29が長崎に飛んでいった。
長崎が【原爆の】犠牲になった。あの煙でここ(北九州)が助かった。
【この煙幕と長崎原爆の関係は数十年語られなかった。数年前に新聞掲載。命令で猛煙を焚いた本人の述懐あり。それ以前は八幡大空襲の煙の影響と推測されていた。】

Q:日本はまた戦争をするのか。

A:私は三菱重工のロケットやミサイルの業務に従事。
飛んできたミサイルを撃ち落とすためのミサイルを設計。戦争を未然に防いでいく。

Q:凉月などを若松に曳航してきたのは何年か。

A:23年にはもうここにあった。

Q:コンクリートでほとんど形が見えなくなったのは何年ごろか。

A:昭和三十年代

発言:船はかなり沈み、水が入っていたのではないか。多分昭和二十八、九年から三十年頃。

Q:慰霊碑では、柳は松型駆逐艦の柳となっているが。

A:慰霊碑では松型駆逐艦、第二次大戦時の艦であると記載ある。
しかしそれは青森県の方に沈んだ船。

実際には、若松の軍艦防波堤は百数年前の大正時代の桃型駆逐艦、初代の柳。

【松型駆逐艦柳であるとの記載は建設当時の通説と思われる。今も信じる人がいる。通説は鵜呑みにしてはならず、資料に基づいた考察が必要。】

発言:明治の祖父が船乗り、門司港の船員学校を出て、祖父の家は、こういう【会場の旧古河鉱業若松ビルの様な】洋館建ての家。
宇佐の平和資料館、掩体壕を毎日見たり、親類も船会社の組織にいた

発言:去年は駆逐艦雪風、磯風に乗った方からお話を伺った。
俺達は家族のために戦うんだと、戦いに臨んだ
俺達だけで戦ってやるっていう決意で戦ったと聞く。
磯風乗艦者の話。
大和の最後の時、最後を見届けよとの号令が艦内に響き渡り、全員で大和を見送ったそうだ。

発言:高塔山の慰霊碑は分かりづらかった印象。地図があれば。

A:
慰霊碑への道順


防波堤への道順

Q:軍艦防波堤の建造当初は、船体に海水を入れてその場に着底させたのか。

A:(海水ではなく)色々な物が詰め込まれ、重くなった状態で着底させた。

A:海水では不安定なので内部にコンクリートを充填した。艤装関係は撤去済みだった。金属盗難もあった。

【※注 船体に充填した主な物資は石などの不要材。部分的にコンクリートも入れたかは不明だが、戦後の極端な物資不足ゆえの艦体利用。現状のコンクリートは後年入れたと推測。軍艦防波堤連絡会記す。】

発言:「若松物語」をきっかけに、軍艦防波堤の朗読活動を展開中。
まだ北九州在住者が軍艦防波堤をあまり知らない。活動の時、良くて四、五人位。一人もいないことも。

Q:「軍艦防波堤へ」の一節に、凉月の形にコンクリートが曲がって見える、とある。実際は?

A:岸壁が通常は直線であるはずが、ごくわずか海に向かって膨れている。
ただあの場所はお墓に近い聖地。決して荒らさず想像を巡らすだけにしたい。

Q:凉月、冬月の形、場所を目で見える様にできないか。

A:気長に働きかけたい。

一旦閉会。

駆逐艦柳設計図の現物公開実施。(年に一度)

各自資料閲覧、個人的懇談など。三々五々自然解散。
-------------------------------------------------------------
報告以上
令和1年5月3日

【【】や()内は連絡会による注釈】
【存命の方は原則イニシャル表記】
【凉月の表記は、ニスイの「凉月」と統一。海軍での正式表記はサンズイの涼月。どちらでも間違いではないとされる】
 

(無題)

 投稿者:軍艦防波堤連絡会  投稿日:2019年 5月 1日(水)19時33分9秒
  読んでいただけて嬉しいです。苦労したかいがあります。  

(無題)

 投稿者:すからん  投稿日:2019年 5月 1日(水)19時25分51秒
  書き起こしお疲れ様です!
録音は何度か聞いてますが、文字のほうが分かりやすいですね
 

2019年・平成31年4月7日 旧古河鉱業若松ビルにて行なわれた、第十回 軍艦防波堤を語る会の発言記録

 投稿者:軍艦防波堤連絡会  投稿日:2019年 5月 1日(水)09時44分28秒
編集済
  【2019年・平成31年4月7日 旧古河鉱業若松ビルにて行なわれた、第十回 軍艦防波堤を語る会の発言記録】
【【】や()内は録音内容ではありません。注釈などです。】
【※ 聞き取れなかった部分には「~」を入れてあります。存命の方のお名前は、原則としてイニシャルにしてあります。】
【駆逐艦凉月の表記は、ニスイの「凉月」としました。戦友会凉月会が何十年間も使用していたことを重んじ、この会では用いています。ある種の方言と思って下さればと思います。日本海軍での正式な表記はサンズイの涼月です。どちらでも間違いではないとされています。】

Ma:会を始める前に一言ご注意なんですけど、この後、軍艦防波堤に行ってみようという方がおられると思いますが、今日はまあ、風が少ないようですけど、急に吹いてくることがあるんですよね。
で、万が一海に落っこちますと、ちょっと上がってこれないような構造になっており大変危険ですので、どうかご注意下さい。以上です。

Yo:軍艦防波堤連絡会のYと申します。今日はよろしくお願いします。私暑がりですので、ノージャケットノーネクタイのクールビズスタイルで行かせていただいてます。よろしくお願いします。

Hi:Hです。よろしくお願いします。

Ma:代表のMです。本日は軍艦防波堤を語る会においでいただき、誠にありがとうございました。この会が2010年に始まりまして、今まで会においでいただき、支えていただいた皆様のお陰で、今回第十回を迎えることができました。誠にありがとうございます。今後とも宜しくお願いいたします。

Hi:では本日は、ご覧のブログラムで会を進めます。特に後半、皆様のご意見をいただく時間を十分取りますのでご協力ください。
軍艦防波堤は、柳、凉月、冬月と3つの駆逐艦でできています。このうち凉月、冬月は戦艦大和とともに沖縄海上特攻に出撃、多くの犠牲者を出しました。柳は百年以上前に地中海で活躍しました。
この方は、駆逐艦凉月の元乗組員、溝江美代次さんです。戦後戦友会である凉月会を何十年間もお世話してきました。晩年、病床で凉月の駆逐艦長、平山敏夫中佐の孫、Sさんと会見を果たし、そのしばらく後に亡くなられました。それをきっかけにこの会は始まりました。
軍艦防波堤に関心を向ける人に対し、18年前、次のようにお話しされました。お聞きください。なお、雑音があるのはご了承ください。
では、18年前の美好さんの声をお聞きください。

【溝江さんの録音を再生】
(語り継ぐのは)そういう方が、一人でも二人でも、当時を思い起こして(戦争を)二度としてはいけない、(軍艦防波堤を)残していってほしいと思います
二度と戦争はしてはいけん。勝っても負けてもみじめなもんだ。(語り継ぎを)お願いします。
【再生終わり】

1945年74年前の今日、4月7日は沖縄海上特攻の日でした。戦友会凉月会は毎年この日に何十年間にわたって行われてきました。この語る会も4月7日かそれ以前の日曜日に行っています。この若松区の高塔山にある慰霊碑は犠牲者の霊を慰めるために建てられました。
戦争犠牲者に1分間の黙祷をしましょう。席に座ったままでお願いします。黙祷。

お直りください。
先程の溝江さんとともに、この軍艦防波堤三艦慰霊碑を建立、維持に関わってきた石橋良男さんが残された文書、軍艦防波堤関係資料がここにございます。若松在住だった石橋さんは、特攻兵器回天の指導教官でした。同じ特攻に関わった軍艦防波堤に深い思いを抱いていたようです。軍艦防波堤連絡会にこの文書をネット公開することを託しました。
その中に、慰霊碑建立趣意書という文書があります。慰霊碑がつくられた趣旨が書かれていますのでご紹介します。

Ma:では、随分昔に石橋良男さんが書かれた慰霊碑建立趣意書 若松海友会というのを朗読させていただきます。
【慰霊碑建立趣意書 若松海友会 (朗読した原文画像
http://maccha777.gozaru.jp/01.jpg
を書き起こした)】
 若松港洞海湾入り口に戦後間もなく、かって日本海軍の三隻の駆逐艦(凉月、冬月、柳)が軍艦防波堤として港の安全と復興の一翼を担って登場し、当地の産業経済の発展に多大の貢献をなし今日に及んでおります。しかし現在は響灘の埋め立て計画の進捗と共に港口よりずっと後退し当初の防波堤の機能は失われておりますが、星霜三十年、厳しい玄海の風雪と波浪に侵食され艦体の大半は砂に埋もれながらなおかつ忠実に使命に生きんとするその健気な姿には、かってのすさまじい海軍魂を見る思いが致します。
これらの三艦は当時日本海軍が世界に誇った最新鋭駆逐艦として数々の壮烈な海空戦に参加、そのめざましい活躍と奮闘は全海軍の士気を大いに鼓舞し、又激戦の都度雷撃による艦体切断或いは爆撃等による大損害を蒙り多数の戦死者を出しながら、乗員の果敢沈着な処置によって沈没をまぬがれそれぞれ見事に奇跡の生還を果たした栄光の駆逐艦であります。そしてこれら駆逐艦の乗員として勇戦奮闘不運にも戦い半ばにして敵弾に傷つき斃れられた若い戦死者の御霊を慰めることは、生き残った我々に課せられた当然の義務だと思っております。
右の趣旨により若松海友会と致しましては戦死者の御霊を慰めると共に日夜激戦を戦い抜いた三艦の功績を永く顕彰するため、ここに慰霊碑建立を計画した次第でございます【以下、朗読は省略 ので。何卒趣旨を御理解下さいまして御賛同頂き浄財の御寄進を賜ることが出来ますればこの上もなく幸せに存じます。
【以上 朗読終わり】
後は省略致します。このような文書があり慰霊碑が建立されました。
私が軍艦防波堤と出会ったのは20年前です。18年前には凉月会の溝江美代次さん、若松海友会の、今【朗読】の石橋良男さんと出会い、何とか軍艦防波堤を世に知らせようと後に置いてあります絵本を手作りしました。前に写してあります。原点回帰で今回もこれを読んでみます。内容には古い部分もありますがご理解下さい。
は朗読致します。後で階の後、絵本の現物をご覧下さい。始めます。

これは何でしょう。ボロボロに錆びて木屑のようです。このような形、大きくしてみました。
これは柳という古い船です。新若戸道路、沈埋トンネルが組み立てられた矢印の場所にあります。横には看板もあります。
柳の横には、凉月という船が埋まっています。1961年の台風で崩れるまで、今見える柳の横には、上の写真のように凉月、右と、冬月、左がありました。凉月の手前は横に切れたようですね。この凉月の話を聞いて下さい。
今から64年前の話です。というのが10年前ですので、74年前の話ですね。
戦争の終わり近く凉月は南の海で大和という大きな船を守りました。凉月は水の中の音を聞き、100km先の船を見つけて大和に知らせました。大和は戦って海に沈みました。
凉月、冬月はこの頃、この二艦だけ真上に修法を打てました。二艦だけというのは十年前の私の認識で、実際には秋月型駆逐艦がたくさんありました。平山敏夫さん、溝江美代次さん、太田五郎さん、他生き残った方々もいます。
これが大和です。大和を中心にこのような輪形陣を組んで沖縄を目指しました。今軍艦防波堤を形作っている凉月と冬月は、大和の真横を図のように守っていました。この沖縄海上特攻隊は事実上帰る見込みのない囮としての役割でした。そのため上空を守る飛行機はほとんどなく、打たれるばかりでした。
凉月は大和を守って戦い、命がけで九州に戻りました。前の方の第一弾薬庫という部屋の辺りに、3人の方が自分で閉じこもりドアを固く閉ざしました。閉ざした部屋の浮く力で、凉月は沈まずに済みました。3人の方は死にました。もっともっとたくさんの方々が死にました。生きて帰った人々は、死んだ人がどう死んだかを見ました。見たことを人に話さず、人に話せず、ずっと生き通しました。
戦争の後、先が千切れた凉月は、冬月と並んで若松の防波堤になりました。港を波から守りました。でも台風で崩れてコンクリートを上に被せられました。3つの船のうち、柳だけが姿を残しました。
柳は10年前、実際にはもう20年前ですね、台風で崩れましたが修理されました。今はこんな姿です。右のような姿です。軍艦防波堤と呼ばれています。行って触って見て下さい。

紙芝居は以上です。軍艦防波堤の位置はここです。これは洞海湾の地図です。ここが若戸大橋です。軍艦防波堤は青橋の向こうの黄色い丸のここにあります。こちらに軍艦防波堤を形作る三艦の模型を持ってきてもらいました。このように並んでいます。説明をお願いします。

Ka:福岡市から来ましたKと申します。数年前からこの会に参加をさせていただいておりまして、今回も軍艦防波堤になった軍艦の模型をお持ちしました。700分の1スケールの凉月、冬月、柳ですね。防波堤では実際こんな感じでおります。今回さらに大和の模型をお持ちしております。大和は凉月、冬月と共に沖縄を救うために沖縄海上特攻作戦に参加しまして74年前の本日沈んだんでございます。その時の姿を再現しておりますので、ぜひご覧いただけたらと思っております。

Ma:はい、後でごゆっくりご覧下さい。ありがとうございました。
Hi:ありがとうございました。
こちらは駆逐艦凉月 元乗組員、太田五郎さんと宮原明さんです。お二人とも亡くなられました。沖縄海上特攻の鉢巻を持っておられます。はじめにご紹介した溝江美代次さんの凉月会にも例年参加されておりました。お二人はこの会場で十年前語られました。その録音をお聞き下さい。まず太田五郎さんが沖縄海上特攻では、日本に飛行機の護衛がほとんどなかったため、敵軍の飛行機に対応できなかったと訴えます。雑音が入るのでご承知おき下さい。

【太田五郎さんの録音を再生】
日本の艦艇に一つも飛行機は付いとらん。水上艦艇は飛行機とは全然対応できません。
水上艦艇と飛行機とは、全然。飛行機は一機も付いとらん。
水上艦艇は無茶苦茶やられました。うちの船【凉月】がやられて、直撃弾くらって、戦死しました。後進で佐世保軍港に帰りました。そういう状態でございます。
【再生終わり】

ついで、宮原明さんが語った凉月の後進帰投のお話です。

【宮原明さんの録音を再生】
後進で帰るときも、船は前の方にタンクが浮袋みたいに、三名の人が犠牲になって、部屋を処理してしもうた。船は絶対に隣の部屋に水は入らんような設備になってますから。三名が自分達が犠牲になって、この部屋を守ろうとして、みんなドアをしっかり閉めて、そのまま窒息で、死んでおられた。
初めて、(佐世保の)ドックに入れて、この倉庫を開けたら、三名とも窒息死で死んでおられた。そのお陰で凉月も沈まずに帰ってきたわけです。
【再生終わり】

このようなお言葉を受けて十年間、この会を続けてきました。その中でできたことをいくつか紹介します。
これの前にまず最初に、ここの会場に来られてますSさん、凉月の駆逐艦長の孫であります方が、「軍艦防波堤へ」という本を出版されました。その次に先程の手作り紙芝居を元に、軍艦防波堤紹介のための本を出版しました。後に置いてあります。
語る会においでいただいたHさんにご提供いただいたこの貴重な写真などが、この本に掲載されています。今では姿を見ることができない冬月と凉月の姿です。現在見えるのはこの柳の姿だけです。柳についても色々な情報が集まりました。
軍艦防波堤研究の第一人者、望月創一さんが駆逐艦柳の設計図を会に寄託しました。設計図の右下に小さなスタンプと書き込みがあるのを拡大しました。普段は北九州の博物館に厳重に保管されていますが、年に一度だけこの会の後にご覧いただけます。
この駆逐艦柳は、写真の平田重成さんが実際に乗っておられました。彼が百年以上前に地中海で付けていた日記が、ある年この会で紹介されました。写真の左がその写真と原文です。持ち主の平田重成さんの実子Kさんです。
次に参ります。

Ma:今日はKさんは体調がお悪く、残念ながら欠席です。

Hi:私Hが、駆逐艦柳の活躍していた頃の写真を入手しました。説明します。この駆逐艦柳は1907年に撮られた写真で、上海におられた時に撮られました。でこれ、見つけたのが海外のインターネットオークションで、アメリカのワシントンから経由して入手しました。拡大すると、やなぎ、かし、もも、の名前が見られます。かし、もも、は柳と共に地中海で活躍した駆逐艦で、百年以上前は日本の最新鋭艦でした。
先ほどとは別につい最近新たに発見された柳の写真があります。拡大してみます。やなぎと読み取れます。持ち主の方、説明お願いします。

M:すみません、失礼します。この度初めて参加させていただきまして、大分市から来ましたMと申します。うちで実家の倉庫を解体した時にですね、以前祖父が上海事変があった際にですね、上海警備中の柳の写真のアルバムが出てきましたので、今日これをお持ちしました。この会の役に立てるのではないかということで、お持ちした次第です。実際アルバムが大変、八十年前の古いものですので、ちょっと痛みが激しいんですけれども、貴重な資料になるんではないかと思いまして、お持ちした次第です。よろしかったら後ほどですね、ご覧になっていただければと思います。

Ma:ありがとうございます。後ろに展示しておきますので、また会が終わってご覧下さい。

Hi:ありがとうございました。またある年には姉妹艦である駆逐艦冬月の元乗組員、Oさんが来場され、戦艦大和が冬月の真横で沈む様子を語っていただきました。お聞き下さい。雑音はご了承下さい。
【録音を再生】
船(大和)が傾斜して、左に傾いてくる。甲板をずり落ちる影が見える。艦が傾くから、逃げようと思っても、何かに捕まってないとずりおちる。ゾロゾロ ゾロゾロ(人が)落ちてくるもう何とも言えない状況でございました。
最後は、弾薬庫まで火が入って、水柱、火柱、上がりまして、その後、隊員らの救助に当たりました、夜遅くまですくい上げて、佐世保に帰ってきました、明くる日の朝。駆逐艦冬月に、ちょうど艦橋でしたから。艦橋で整備してましたから。そのような状況で
人名の尊さを、本当に感じました。本当に申し訳ない。本当に。
【再生終わり】

大下さんのお話をこの会場で聞いた県立北九州高校の生徒さんが、その思いをこの本に記載しました。このように十年の間に若い世代が軍艦防波堤を受け入れるようになり、皆さんにも受け入れられています。
また2013年に始まったパソコンゲーム、艦隊これくしょんで若者が戦争に関心を向けるようになりました。その数数百万と言われています。綿密に調査された艦船の性能や戦歴など、戦争を具体的に、話題にしています。凉月も2017年に、このゲームに登場し、大きな人気を集めています。艦これをきっかけに、戦争に注目し、はるばる軍艦防波堤を訪れる若者も増えています。

Ma:会場の皆様に、艦これについてちょっとお聞きしたいんですけど、艦これのつながりでここに来られたという方、どの位おいででしょうか。ちょっと手を上げていただけますか。
【会場約七十人程度のうち、三分の一位の挙手】
ああ、凄い。たくさんおられますね。ありがとうございます。あとでどうぞご意見をお願いします。

では次に駆逐艦凉月の駆逐艦長であった平山敏夫さんの孫であるSaさんです。この軍艦防波堤を語る会の設立者の一人です。SaさんとMaさんが十年前の語る会設立当時の思い出をしばらく語ります。

Ma:Sさん、お久しぶりです。
Sa:かれこれ三年ぶりくらいだと思いますけど。お元気で。
Ma:はい、ありがとうございます。今日は飛行機で東京から飛んでこられたんですね。
Sa:今日は日帰りなんで、はい。貴重な時間ありがとうございます。
Ma:懐かしいお話とか、ここに年表にまとめてみたんですけど。
Sa:11年くらい前に、私が50位になる時にですね、母方の祖父が最後の艦長の平山敏夫だったんで、私の子供に何か残したいという気持ちがありまして、当時まだスマホとか、メールが若干普及していた時代だったんですけども、「軍艦防波堤 凉月」というキーワードで検索したら、抹茶さんがやっているホームページにたどり着きまして、で、ハンドルネームが抹茶さんとおっしゃってて、全く僕はどんな人物かもわからない中でメールをしてやり取りが始まりまして、二ヶ月後くらいに当時小学校六年生の息子を連れて、新幹線の小倉駅の改札口で初めてお会いをしました。それ以来今までに登場されました太田五郎さんとか宮原明さんに直接ご連絡をして、ご自宅にお伺いをしてお話を聞きました。そういったところの録音も残っているんですけども、それから、終戦直前にですね凉月が係留されていた相浦という所にも二人で行ってみてですね、大体ここら辺じゃないかみたいなことを探り当てたりとかして、そういう経緯も含めて先程紹介いただきました「軍艦防波堤へ」という、中身はフィクションとノンフィクションがぐちゃぐちゃに混ざっているというような本なんですけど、書かせていただいております。
全てはですね、抹茶さんから始まっている、直接あの戦争の当事者ではないんだけども、なぜかその地元で地道に活動をずっと続けてらして、それがここまで大きくなったのかなと思うとですね、ほんとに感無量であります。
Ma:ありがとうございます。確か、溝江美代次さんと出会ったのが2008年、平成20年の9月7日でした。あの時は溝江さんはご病気でですね、ほとんど動けない、話せないに近い状態でしたね。だけど、Sさんが、こちら艦長の平山敏夫さんの孫ですよって言われたら、はっきりとその時だけ何年ぶりかに、はっきりと眼を開けて声もかけられたんですね。お懐かしゅうございますってね。
Sa:その横に息子がおりまして、息子に対して溝江さんが最後にかけていただいた言葉がですね「立派な人間になりなさい」っておっしゃられたですね。それから十数年経ちまして残念ながら息子は大学を中退してバンドをしていまして、立派ではない人間になっておりますけども、そういう状態です。
Ma:息子さんがまた軍艦防波堤に来られるのがとても楽しみです。
Sa:一つだけ申し上げたいんですけども、いろんなものがずっと積み重なって、いろんな情報とか物とか資料を持ち寄ってらっしゃる状況があると思うんですね。私の家にも当時色々とやり取りをしている中で、凉月の五十cmくらいある大きな模型を、自分のおじいちゃんが死んじゃってどうしようもないから引き取ってほしいっていう様に言われて私の家に置いてあるようなものがあったり、平山艦長に戦後、乗組員の方が手紙を書かれてその中で最後、佐世保に戻ってくる時に、その後沖縄に行くのか佐世保に戻るのかという状況を、艦上で議論というか、した場面がありまして、いわゆる若い将校さんたちは、このまま突っ込めということを主張されて、実際に軍刀を抜いて艦長だったり、ナンバー2の先任将校だった倉橋さんなんかに迫ったというシーンが実際に書かれている手紙とかが残っているんですね。
これは地元の方、市内だと思うんですけど、何かこう具体的な物をどこかにきっちりまとめて、何時でも誰もでもが見れるような形にしておくっていうのが、最終的なMさんの思いでもあるのかなという風に思っておりまして、遠く東京からやってきて勝手な事申し上げておりますけども、そんなことも是非考えていただければな、という風に思っております。

Ma:ありがとうございます。資料の蓄積などを目指していきたいと思います。この後、太田さん、宮原さんの息子さんも来られておりますので、お声をお聞きしたいと思います。Sさんありがとうございます。

拍手
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Hi:ではこのあたりで会場のお時間としたいと思います。まずは元乗組員、太田五郎さんの実子、Oさんお願いします。

Oo:こんにちわ 語る会には久しぶりに来ました。大体7日の日にですね、高塔山と防波堤とお参りして帰りよりましたので、語る会のほうは日曜日にある。
父はですね、先ほど紹介ありましたように駆逐艦凉月の方には、横須賀の砲術学校を卒業しまして、そのまま長崎の造船所、建造中の凉月ですね、いわゆる艤装員、乗組員じゃなくて艤装員時から乗り組んでます。最後は先程から話ありますように昭和20年4月7日ですね、沖縄特攻隊の方に一緒に行くということで、初めから最後まで凉月に乗り組んでいた一人です。父の配属先は二番砲塔旋回手です。
珍しい物を紹介したいと思います。これはですね、防波堤の一部、凉月ですね。その一部を、凉月の船体の一部をこのようにネクタイピンにしたもので、実は私ですね、父がよく旅行に行ってお土産を買うんですね。また、もう安物を買ってきてからと思ってほったらかしていたら、昨年、遺族会のYさんが、実はこれは貴重なものだぞということでですね、凉月そのものを取り込んで、こんな風にネクタイピンに作って、凉月会の方に配った物で、これだけは大事に大事にしとってくれよと言われましてですね、もう私は冷や汗冷や汗でですね、ほんとびっくりしゃっくりしてからですね、貴重なもので、非常に大事に大事につこうとります。これが現物のネクタイピンです。これは凉月そのものです。貴重な物と思います。
それから、これは船の上でこうしたりこうしたりする、実は護衛艦の「すずつき」ですね自衛隊の、出来上がった時にですね、佐賀県に色々、元乗組員、駆逐艦凉月ですね、私のとこと、宮原さんのとこと、もう一人いらっしゃるんですけど、その3人家族が招待受けましてですね、乗り組んだ時に艦長自らこれを、乗船体をこうしてですね、そして案内をしてもらった。もう父はですね、艦長なんか顔さえ見ることもできなかった、こんなに案内してもらってですね、艦長室まで案内してもろうたですけど、非常に感激しておりました。その時の乗船札ですね。
それとまあ、色々あるんですけど、生き残り兵がだんだん少なくなってきたということで戦後七十年ということで、あちらこちらから取材を受けました。その中の一つがですね、佐賀新聞、1つめは予告編みたいな感じですね、ここに載ります。中の方はこれくらい大きなので、眼の前で大爆発した巨艦、戦艦大和の最期ということでですね、載ってます。びっくりしてですね、こんなに自分の言ったことが新聞に宣るとは思ってなかったということでですね。
それと、この写真はですね、最後の特攻隊ですね、かなり汚れています。という事で、無事に父と共に帰ってきたという写真です。
それとですね、今日とはちょっと関係ありませんですけど、父が最初から最後まで乗っていたという事で、昭和十九年1月16日ですね、宮崎県の?という所ですけど、それから東の方に100kmのとこでアメリカ軍から攻撃を受けて、海軍、正式な乗組員は159名くらい、陸軍も乗り組んでいましたので合わせて250人位が亡くなっています。船は、同時に前と後やられた。浮いてですね、船から呉の方まで引っ張ってもらって助かるんですけど、その時父は一週間前に配置替えがあった。配置替えなかったらとしたらですね、そこは全滅なんですね。だから父は死んでいたんですけども、だから非常に心残りがあってですね、何とかしてそこに慰霊碑かなんか建てたいということで行ったんですけど、なかなか津野町とか打診をしてみたんですけども、たてだ?としても自分たちはのちのち関係できないからということで丁重にお断りしましてですね、何とかして父の意志をですね、実現させたいなと思ってるんですけど、なかなかできない状況です。それについてはですね、ちょうどその日、1月16日のですね、十時半くらいですね、受けてますので、父と一緒に知覧岬の最東端、東端の所ですね、所に行って、太平洋に向かって手を合わせてはきたんですけどね、父はそれでも自分は生き残りの兵の一人だから、亡くなった戦友たちを弔いたい。自分の身代わりになって亡くなっていったからということでですね、それを常々申しておりましたので、何らかの形で実現できないかなということで父は心の中に溜まってます。
まあ、あちこち跳びましたけどそういったことです。よろしくお願いします。ありがとうございました。

拍手

Ma:どうもありがとうございました。
Hi:ありがとうございます。次に元乗組員、宮原明さんの実子Mさんです。お願いします。

Mi:こんにちわ。佐賀からきましたMです。今日はですね、だいぶ古いですけど、さっき写真に写っていた、これは沖縄特攻に行く時に渡されて、もう八十年ぐらい前になるんですかね、まだ一度も洗濯してないって、なんか自慢してました。これは親父が前に話したことなんですけど、東京に五年くらい居た時にですね、向こうでやっぱり九州の方と知り合うと、ものすごく親しみが湧くんです。それでまた九州でも佐賀なんて聞いたらもうすごく盛り上がるんですよ。でですね、あの、うちの父親が艦に乗っている時にですね、宮原、宮原、おおつぼ少尉が艦に来られたということでですね、同じ艦の友達が言われて後でおおつぼ少尉という方から呼ばれて行ったらですね、祖父の親戚の少尉だったらしくてですね、艦でだいぶ可愛がられたということ、聞いております。それでですね、少尉の人ですからね、艦橋の所で爆撃にあわれて亡くなられたんです。それでですね、休暇で家に帰った時にその、お父さんが農作業されている時に、自分は爆撃で亡くなられてというのを知っているんですけど、あなたの息子さんは亡くなられたとか、そういうことは言えなかったとは言っていました。
亡くなって半年ぐらいしてから死亡届が来るらしい。ですから戦争っていうのは、人と人の殺し合いですからね、してはいけないなって、太田さんの息子さんも言われてましたけど、ほんとにやっぱり、今の時代が一番、その当時沖縄に行くのが怖くないって親父が言ってましたけど、ほんとにどうだったでしょうかね。まあ、自分は今の時代に生まれて大変良かったです。

拍手

Ma:ありがとうございました。
Hi:ありがとうございます。この軍艦防波堤を語る会は、皆さんのご意見、ご質問で成り立つ会です。後の時間は全部皆様のための時間です。遠方からおいでの方は特に貴重なお時間です。どうぞご遠慮無く、ご意見、ご質問お願いします。

発言者1:すみません。今日初めて参加させていただきまして、すごくもしかしたら基本的な質問になるかも知れないですけど、いくつか資料とか~凉月のすずがニスイだったりサンズイだったりするのが、どういう理由だったり、どういう違いがあったりするものかそういった疑問です。

Yo:それに関しては、海軍の正式な命名ではサンズイとなっております。ただ艦長さんのやってらした資料とかでもニスイになってまして、あと戦友会の方もニスイの方の凉月の凉月会となっておりまして、公式にはサンズイなんですけど、非公式というかそういう感じで使われてきたという形になっておるみたいです。

Oo:すみません。これがですね、父太田五郎の履歴書です。これによるとですね、手書きなんですね、履歴書、当時だから。これ見るとすずつきはサンズイです。多分ニスイもサンズイもそんときの書く人が、ニスイでも、サンズイでも、少なくとも父の履歴書にはサンズイです。これが正しいのかどうかは知りません。国の方で~する時に、書く人がどんなふうに書いたかですね、まあ、かっこいいからニスイにしたのか、サンズイが何とかしたのかそれはわかりません。少なくとも父の履歴書はサンズイです。

Yo:ありがとうございます。これでよろしいでしょうか。

発言者1:ありがとうございます。

Hi:では他にご意見ご質問など

発言者2:今日初めて参加させていただきました。私も今年の誕生日があと三ヶ月で95歳になります。私の兄が大正9年の生まれの、23歳の昭和19年の1月25日に駆逐艦で南太平洋でアメリカの魚雷で一発吹き飛んで死にました。葬式に私はくたに温泉?の鉄道員をしておりましたので、機関車の運転手しておりましたので葬式に帰ってきたんですが、もちろん遺体は紙切れ一枚で骨箱はありまして箱はありましたけど、そういうことはどうでもよろしゅうございますけども、私はもう兄弟姉妹、親ももちろんのこと、誰も残っておりません。昔のことを言うてくれる人は、誰も教えてくれる人はおりませんし、私が勉強しとって質問をするのに今になって暇になりましたもんですから、聞こうと思っても誰も教えてくれません。現実にその時に教えてもらわないと、体験しないといけない、戦争の悲惨さあります。ちょっと付け加えさせていただきます。昭和18年に私が中学生の頃、親孝行せいよ、そこの鐘崎の浜にボートに乗って、別れに来たんでしょう、あとで考えると。そして半年して死んだわけですから。佐世保海兵団から横須賀の砲術学校に行って、それから巡洋艦の妙高に乗って、あと何をしてたかわからんうちに駆逐艦、今日のテーマの駆逐艦の涼風と聞いたんですけど、涼風という駆逐艦で兵隊さんを輸送する、守ってやる、海の上で守ってる時に、海の上を輸送している時に、人間というものは近いものでいとこが輸送船の陸軍の隊長かなんかしよったらしいんです、げんごというですけど、げんごさんはね、25日に俺の眼の前で爆撃して死んだんだよということであったんです。
で、戦争のノンフィクションの海軍誌の中に「丸」とかいう雑誌が今もあると思います。真実を語っていることでございますけど、それを私はいとこから話を聞いてすぐ雑誌を買いに行った、やっと取り寄せました。今私は末男で男の子4人でございますが、一番上はビルマで、あの激戦地の中から一年半ぐらい遅く帰ってきました。2番目は満州のソ満国境でこれも何とか帰ってきて7年前に死にました。海軍の3番目は今話している兄なんです。で、これが、鐘崎の浜で海軍の話を私を捕まえて、親は百姓をしとって忙しいもんですから、私に兄が帰ってきたことは一言も言わんわけです。で、案内もしないしろくにお茶も飲ましてないんです。私だけが中学生で暇だったもんですからそのボートの中で、セーラー服とはこういう風に耳をそばだてるために作ってある服だよ、海軍さんの靴はあっぱっぱよ。これは沈んだ時にすぐ靴がぎゅうっと抜けるんだよ。色々なことをですね初歩的なことを言うて、お前が親孝行せいよと、私は親孝行しきらなかったですけど、これは74年前ですかね、19年に死んでその時に親が言いました。きょうだいが9人、女の子を入れて9人、男の子が4人だったんですけど、この中で親孝行したのはこのげんご、海軍で死んで殊勲賞の六級ですか頂いて靖国神社に祀られてるらしいですけど、靖国神社に行っても声はかけてくれません。そういうものの中で親孝行してるのはこのげんごだけだなあ、言われた時にまいったまいったとね、海軍で死んだ軍人に遺族料とか何とかありまして、遺族料も親が死んだら身内の順番で、長男ですか、次男三男と来ますが、私が一番下でございまして四男で、ちょういにんというものは?私が今もらっているので私も間もなく死ぬでしょう、でそれもなくなります。そうすると女には来ませんので打ち切りという形になって、国は助かるかも知れませんけども、
こういう悲惨な戦争が私の生涯、大正13年から昭和の始め、日本はこれだけ苦労したんだな、確かにその気になってみると今言葉の上で国会議員がああだこうだ言うけど、【不明】
中で、日本の立場というのは大抵死んだらわかりま?
今日ここで、陣原の駅の前でチラシを見ました。若松で4月の7日に1時から3時までお話があるというので、二ヶ月ぐらい前から今日の来るのを待ちかねていました。なんか泣き言ばかり言うようでございますけど、今日の中で若松には柳という駆逐艦があるということだけしか知りませんでしたが、凉月というのが果たして駆逐艦で涼風と同じかどうかそういうようなものが今も疑問なんですね。
こういうようなことでお話を聞いて、私の子供、孫、もうひ孫が8歳にもなりますし、ひ孫にも教えてあげなければならない。申し継ぎ、言い継ぎ~、そういうことになると思います。非常に有り難い会に参加させていただきまして、ありがとうございます。私が生半可な俳句をこの前作って地方紙に出したんですけど、「わだつみに 召されて行きし はいせんき」というような句を作ったんです。この時にわだつみというのは海の神と書いて海神ですね、海を司っとる神様が、私が兄貴の駆逐艦の涼風を海の中へ引っ張り込んだ、アメリカが撃ったということじゃないわけです。そういうようなことで非常に思い出になっとる事ですから時間がかかることですみませんけど、今日の中でこの凉月と涼風が違うんじゃろか、すずはどのすずやったんじゃろか、ただおぼろげに覚えるだけで、この年になりますと覚えるよりも忘れる方が早うございますので、非常に参考になりましたと思います。これ質問でしましても、今日の中で同じように佐世保の砲術学校出られたというお方が何歳か私は聞きませんけれど、兄と似通ってるかなという気もいたしまして、しがけでていくばかもあると?
私の家はまずしゅうございましたけ、小学校のこづかいさんしよった兄がしがって出ていったんです。そして涼風という聞いてますけど、で亡くなりました。 今日若松で私は折尾でおりますもんですから、近くでもありますし若松でひよっとすると同じ船じゃないかなと想像もしてきたわけでございますけど、まあ質問ということではございませんけど、私の体験、くだらんことをきいていだたきましてありがとうございました。

拍手

Ma:はい、ありがとうございました。凉月と涼風と違いとか、ご存じの方おられますか。

発言者3:すいません。涼風は白露型の10番艦で横須賀のむらがわりょかん?途中海風から改白露型と名前が変わった。~詳しくなくて本当に申し訳ない。~日本海軍の駆逐艦の種類~。

発言者2:もうよろしいですよ。もうそうなってもしょうないから。忘却とは忘れ去るものなりで、もうそういったのはかえってよろしゅうございますので、すみませんでした。

発言者3:ああ、すみません。~じゃあ一応白露型の10番艦ということで。凉月は秋月型の3番艦です。それだけちょと。失礼しました。

発言者2:ありがとうございます。

Ma:凉月と涼風はまた別の艦ということで指摘がありました。ありがとうございます。

拍手

発言者4:あの、私は地元の人間でございます。年はもう八十以上たっています。私はあの軍艦がそういう歴史のある軍艦とは知りませんでした。せんせきで逃げて帰ってきた、3人を、それで浮袋として窒息するなんて、開けてびっくりする。だけど、悲惨なね戦争とは。
私は6歳か7歳の時、この船の上で遊んでいました。そして若松の若い人たちも大人も男性はこの辺で一番の漁場やったんです。それはカニをやりやったんです、ワタリガニを、またたくさん採れるのです。ねえ、そういう歴史が、生きて帰ってきたここに。大和を護衛してあんな遠い海から、ねえあんな小さい船で、乗員は何名ぐらい乗っとったんですか。

Yo:乗員、四百名ぐらい。

発言者4:あ、何名?

Ma:約四百名くらい、何十名の方が亡くなられております

発言者4:四百名!わあーっ ああ、そうですか!私は今でも思うけど、あの艦はね、ナイフみたいな艦です。もうナイフみたいな細ーい艦です。あれで四百名!びっくりしたですねえ。

Ma:人数についてご存じの方、おられますか

発言者6:380名ほどでした。

発言者4:あの艦はどこで造船されたんですか。

Ma:凉月、どこでしたかね。

発言者6:佐世保です。

発言者4:佐世保か、そしたら大和はどこです。

発言者6:大和は呉です。

発言者4:呉でしょうね。呉ドック、そしたら大和用のドックを作った。

発言者6:そうですね。

発言者4:今はないでしょう。

発言者6:今はあります。今はタンカーを作ってます。

発言者4:あれたちはみんなね、八幡製鐵所、つとめとったんです。おそらく国営の八幡製鐵所から流れたんです。それで終戦末期にね、戦いは負けんやろうて思うて、そしたら国から、製鉄所の若い人間を出せという命令が来たと思うんですよ。だから正規の社員ですよね、?それで出征して未だに帰ってきません。元気な人間を出せと。もう製鉄所の製造能力がないんよ、爆撃受けて、もう若松は煙ばっかり、煙で太陽が月に見えるんですよ。防火水槽で、ウワー、昼間から月が上がっとるごとある。そしたらなんとB29が、幸いになんですけど、長崎に飛んでいった。悲惨ですね。長崎が犠牲になった。あの煙のお陰よ。ここで助かったんです。そういうことです。戦争は、これから日本はまた戦争をするのですかね。します?

Ma:どうでしょうか、会場の皆様。

発言者4:すると思う人、手を上げて下さい。うぉーいない。

発言者8:戦争はできるように持っていきよるのは事実。

発言者4:ところが、今親族にもね、航空自衛隊とか自衛隊に入ってね幹部になっとるけど全然秘密は言わん。飛行機は今~やもんね。F35になったらどうなる。私は嫌じゃ。早く死にたいよ。終わりです。

拍手

Ma:長生きされて下さい是非。

Yo:私ただいま三菱重工の、ロケットとかミサイルを作っている工場の設計の方の業務をしているんですけど、私の考えとしては、わたしがやってるのは、飛んできたミサイルを撃ち落とすためのミサイルを設計するという、そういうシステムを構築するという仕事をしているんですけど、私としましてはそういうシステムを構築することで、戦争を未然に防いていくことができればいいなと思って私は仕事をしておりますから。現場の人達、みんなそういう重いでやっていると思いますので、そういうこともお知り置いてほしいなと思っております。
すみません。私ごとでしたが、他に何か、

発言者9:凉月とか軍艦を若松に曳航してきたのは何年ですか。

Ma:正確な年代がわかる方、おられますかね、昭和にじゅう

発言者9:23年にはもうここにあったんですね。
コンクリートでほとんど形が見えなくなったのは何年ごろですか。

Ma:その工事を担当した方がおられたんですけど、年代を正確には記憶してないんですけど、昭和三十年代

発言者9:写真を見ると二隻並んで、上を歩いていかれるんですよね。私が小さい頃あそこでカニを釣ったりしてた頃は、船はかなり沈んでですね、砲台の下は水たまりになって、船はかなり傾いて、その上でがれたまのって、魚を採ったりしていたんですよ。だからまだあの、艦橋っていうんですかね、この形は砲とか付いてなかったんですけどありました。そして砲台の所だけは全部なくして下は水が入ってですね、その上を子供たちが、私達が歩いていたのだから、かなり船は沈んでいたということなるんですよね。

Yo:あの、写真に残っている・・・

発言者9:ああいうところでは、小さい子供上がれるんですよね。私達が行きよる頃はもう沈んでいました、かなり。そして、がれたごまか投げたりしてあそこで魚採ったり

Yo:潮の高さで変わったとかではなくて、すでにもうずっと、

発言者9:うん、子供の、もう記憶は薄れとるですけど、多分昭和二十八、九年から三十年頃だったと思うんです。だからその頃の写真があればいいなと思うけど、そういう~写真というのがネットで探してもなかなかないので

Yo:あの、後ろの方にたくさん資料がありますのでまた後で一緒に探してみたらと思います。

Hi:後ろに解体直前の写真がありますので、三十年頃、解体されている様子がありますので。後側にありますので、もし良かったら

発言者9:そのなかにそういう沈んだやつもありますか。

Hi:あの、ちょっとお見せしますんで。

Ma:少々お待ち下さい。
Ma:えーとこれは北九州市の市政だよりの中に載っておる凉月と柳の姿です。

Hi:軍艦防波堤が解体されている時の写真がこちらに。凉月、冬月がありますんで、後ろに置かれていますんで、もしよかったら。

Ma:この船の間を跳んで渡るのが肝試しになっていたとかいう話もありました。いいですか進めて。

発言者9:ありがとうございました。

発言者10:最近、凉月とか冬月の事を知ったんですけど、色々調べて高塔山とか軍艦防波堤とかにも行ったんですけども、・・・
柳も、初代と、それから松型駆逐艦の柳ってなってるんですね、それで防波堤とかにも看板があって、書かれているのがずっとそう、柳ってこういう船だなと思ってて、これ、初代の柳で、このパネルに書いてあるのが松型の柳なんですよという、なぜ違うんだろうと、そのいきさつとか気になってですね。よかったらご存じの方がいらっしゃったら聞きたいなと思って。

Ma:慰霊碑の方では松型駆逐艦、第二次大戦、太平洋戦争の時の駆逐艦であるというように書かれておりますが、当時の調べ方がですね、ちょっとまあ、なんていうか、簡単にいうと違っていて、その松型の駆逐艦は青森県の方に沈んだ船でありました。それに対して正確な所は、軍艦防波堤のは若松のは大正時代の初代、松型じゃなくてええ、

発言者8:桃

Ma:ああ、桃型駆逐艦。百数年前ですね。初代の柳であります。そちらのほうが正確であります。

発言者8:一つはね、慰霊碑書いとるのを第二次大戦の柳と書いとるの、あれがまちごうとる、あれ参照にしたんじゃないですかね。慰霊碑が、あれ、太平洋戦争のと書いとる。二代目を書いとる。それで間違うとる。現存したのが桃型。

Ma:大正時代。

発言者8:あれを参考にして~

Yo:軍艦防波堤の方にある看板も、今あるやつの前のやつは確か松型の方が書いてあったんですよ。【これは違うのですが】で、いまのやつは正しいの書いてあるんで、

発言者10:新しくなったやつですか。

Yo:今のやつは新しく、松型とは書いてないはずなので。

発言者10:またあの、拝見しに行こうと思います。ありがとうございました。

Yo:看板の方、確か後ろの方に写真があると思うので、新しい看板が、あーありがとうございます。そちらの方に今の看板も書かれていますので、確認できればと思います。お願いします。

発言者11:すみません。マイクが隣に来たもんで、一言喋りたいんで。

Yo:お願いします。

発言者11:明治のおじいちゃんが、やはり船乗りさんになりまして、農家の長男坊だけど、農家を継がずにですね、門司港の船員学校を出て、明治のじいちゃんの家は、こういう【会場の旧古河鉱業若松ビルの様な】洋館建ての家なんです。で、僕が宇佐の方に移住しているんですけど、面白がってサイクリングしたりしてるんですけど、この建物が僕の祖父の家と全く同じ洋館、もう明治の文明開化そういう感じ。だから宇佐の方の平和資料館なんかに永遠のゼロ映画とか、ありますけど、あれの写真のための模型を、宇佐の海軍の方もゼロ戦とか、飛行機を隠す、

発言者不明:掩体壕。

発言者11:そう、掩体壕を毎日みたりして、今日は縁があってですね、軍艦防波堤というポスターを何回も駅で見させて、もう一時よとか、苅田とか、もうあちこちで、前も見たんだけど、ああ一時だとか思ってね、本当に縁があって、十年くらい前にこの本と出会ったんですね、新聞に十年くらい前に、僕、枝光に住んどったもんだから、枝光の方にこの冊子を頂いて、わあ、すごい人がいるんだなあと思って、僕の親類とか伯父さんなんかもみんなこう船のとある船の会社の組織にいたもんですから、今日はおじいちゃんに、ご先祖様ていうか、会うというんじゃないけど、父と会えて良かったなと、ちょっと会を終わる前に一言喋りたかった。ありがとうございました。

Ma:ありがとうございます。

拍手

発言者12:すいません。私横浜から参りましたMと申します。色々坊ノ岬~について個人的に調べておりまして、去年は駆逐艦雪風、磯風に乗った方からお話を伺うことができました。で、先程の話にあった通り~で坊ノ岬に向かったかという事を聞いたところ、雪風に乗られていた方は、天皇陛下のために戦うんじゃない、俺達は家族のために戦うんだっていう、仲間内で言って、戦いに臨んだんだそうです。皆さん結構遺書とか書かれた方も多かったそうなんですけど、何となしに本人は帰れるんじゃないかと思って、その方は書かなかったそうです。で、もう一人、磯風に乗られた方にもお話を伺ったんですけど、よく坊ノ岬沖海戦の時の話をする際に、出撃する前に前途有望な若者は連れて行かないっていうことで、士官候補生は退艦させたっていうのをすごい美談っていう風に話は伝わっているんですけど、実際磯風に乗られた方は、雪風に乗られた方は当時十八歳、特別志願兵っていう形で乗ってたですけど、彼が~退艦命令が出なかったもんですから、磯風に乗ってた方はそれに凄い憮然とした~があったんですけど、逆に仲間内から、そんな来たばっかりの士官候補生なんか邪魔だから、あいつはいなくていいよとかいうような感じで、もう別に俺達だけで戦ってやるっていう決意で戦ったそうです。それで、磯風に乗ってた方に話を聞いて凄い印象に残ってるのがやっぱり大和の最後の時で、艦内に、誰が命令したのかわからないそうなんですけど、大和の最後を見届けようっていう号令が艦内に響き渡ったそうで、それで全員で大和を見送ったっていうことだそうです。それが凄い個人的には印象に残っています。
ま、書かれた方の本は私持ってきましたんで~よかったら読んでもらったら幸いです。以上です。

拍手

Yo:ありがとうございました。では他に何か~

発言者2:先程は拙い言葉ですいませんでした。軍艦防波堤自体は今回三回目、あ、これから行く予定です。すずつきとの出会いは護衛艦の方なんですけど、私が。一つだけ質問なんですけど、高塔山の方、今、若松物語見てて、軍艦防波堤の行き方っていうのは分かりやすかったんですけど、高塔山はわかりにくいって、二回目は慣れたんで、一回目はでっかい駐車場の方、奥の方の駐車場の方、それで歩いていって慰霊碑まで行ったんですけど、ちょっと分かりづらかったなあっていう印象があったんで、そこだけまあ、質問っていうか、話しときたいなっていうことだけで、軍艦防波堤も分かりづらかったんですけど、なんか、行けたんで。
すずつきには、場所が、私が埼玉出身なんで、海ないし~全然縁もゆかりも、そんな感じで、それだけ以上です。

Ma、Yo:ありがとうございます。

Ma:ちょっと今地図を出しますんでお待ち下さい。

Yo:私もですね、中学生ぐらいの時に初めて軍艦防波堤に行ったんですけど、高塔山の慰霊碑は確かにわかりづらくて、地図を見て、父親が連れてってくれたんですけど、すごいわかりづらいなっていうのはありましたんで、確かにそういう地図があればなっていうのが私もあります。

Ma:慰霊碑の道順が、ここにQRコードで示されていますので、スマホなどで読み取ると道順がわかると思います。
【参考 慰霊碑への道順 https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1qidSTvkInyYfokx9kih6v-H7QWw&ll=33.90436444456179%2C130.7996902&z=18

それから、防波堤への道順がこちらに、コード示しております。
【参考 軍艦防波堤への道順 http://suzutsukimamore.web.fc2.com/9.gif

慰霊碑の方は、紙にしてないんですけど、あら、防波堤への道順ももう無くなっちゃいました。すいません、刷るのが少なくって、えー気を付けておいで下さい。ありがとうございます。

Yo:ありがとうございます。では他に質問とか、はいどうぞ。

発言者14:あの軍艦防波堤に関する質問大変初歩的な質問なんで申しわけないんですけど、軍艦防波堤を建造した当初の軍艦、冬月、凉月、柳の状態なんですけど、今はコンクリートに埋まってますが、完成当初はその駆逐艦の船体、艤装を全部、上構造、建造物、艤装等を全部除いた状態の船体をそのままコンクリートで固定せずに、海水を入れてその場に着底させて固定させた状態で防波堤としての役割を果たしてたんでしょうか。例えば、そのままの船体をコンクリートなどで固定せずに、そのまま海に沈めた状態で沈めたというか、海に置いて防波堤の役割を果たしたんでしょうか。

Ma:お答えの方、おられますか、会場からお願いします。

発言者15:誤解されている件があると思うんですけど、防波堤という形で船を沈める場合、内部に必ずコンクリートを充填します。
【※注 船内に充填した主な物は、コンクリートというより主に石などの不要材であったようです。今見えるコンクリートは、後日埋めたものと思われます。特に柳の艦首部分は1999年に台風で破壊された箇所を、数カ月後に内部からコンクリートで補強し直しています。軍艦防波堤連絡会記す。】
何故かと言いますとですね、貯水タンクみたいなのを埋めますよね、それを埋めた場合、空気が入ると、浮いてくるんですよ。そのために完全にコンクリート充填してそのまま着底させます。ですから、波に洗われてももう動かない状態になると思います。ただ、沈めただけというのも、コンクリートで周りを固めた状態というのを私の方も見てるんですけど、ちょっとわかりかねます。
で、最初の方の話なんですけど、地元から聞いた話では金属盗難がかなりあったと聞いとります。構造物はかなり、盗難されるくらいのものはあったんじゃないかと、かなり高額で取引されてて、相当盗りに行ったとお聞きしていますので、かなりあったんじゃないかと思いますが、艤装関係に付きましては~取り払われて~なかった状態で持ってこられたと考えてよろしいかと思います。すいません、ありがとうございます。

Ma:ありがとうございます。
拍手

Ma:コンクリートや石ころやら、色んなものが詰め込まれて重くなった状態で着底したおった状態で、それからそれを両側から固定するようにコンクリートのブロックのようなものが置かれていたのではないかという写真もありますが、正確なところはわかりません。コンクリートでガチガチに両脇から固めていたのではない。上に置いたという感じだと思います。じゃ、次お願いします。

発言者16:質問の前に、お礼を言わせて下さい。私は対岸の戸畑区在住で地元で~をしております。Nと申します。この軍艦防波堤を語る会を知ったのは、去年の2月、若松物語をキッカケに、私朗読活動をしておりまして、~朗読していこうと思いましたところ、4月1日、去年ですね、この会が行われるということをたまたま、インターネットでいろいろ調べているうちにわかりまして、ここで初めてMさんお会いしました。で、これを語らせていただいていいでしょうか、語り部になりたいですと申しましたところ、どうぞどんどん、写真も使って下さいと言われたので、もう、ほんとにこの一年間けっこう、朗読ライブ主催しておりまして四十人くらい集まるんですけど、スクリーンに映像出して朗読させていただきました。そのたびにですね、最後は北九州文学館、小倉北区、百人くらい来られていたんですけど、それは私のためにではなくて朗読家を~ですね。私の朗読は「スズツキいずこ」というタイトルで~終わった後、皆さんびっくりされて、北九州在住の方々がみんな知らなかった。特に市民センターも色々あって、~市民センターで行なったんですけど、職員さんその他一同全員が知らなかった。軍艦防波堤って何ですかって、まず朗読前に軍艦防波堤ご存じの方、会場の皆さんってさせていただくんですけど、良くて四、五人くらい手が上がるのが、で、市民センターでも一人も上がりませんでした。で、ほんとにこの話を聞けて良かった、次の日早速行ってみました。~聞かれた中のご意見なんでとても私嬉しいんですけど、この会を続けてこられたというのが素晴らしいことだなと思います。ほんとにありがとうございます。
それで、私も質問なんですけど、この若松の中で、地図なんですけど、凉月が埋められているこの、簡単な地図ですけど、たまたま最近ですねSさん軍艦防波堤へ、読ませていただいて、すごくワクワクしながら読んだんですけど、この中の一節に凉月の形にコンクリートが曲がって見えるという、~抹茶さんが、ここからそう見えるんですよ、その一節に私はまたワクワクして、もう一回軍艦防波堤へ行って、凉月の形に曲がっているのかなっていうふうなことを思ったんですけど、実際どうなんでしょうか、この地図でいうと完全に凉月はコンクリートの中に入ってるんですね、でも先程冒頭に~ここではちょっとそれらしき~の形に、じゃないかなと、どちらが正しいのかなと、この何ヶ月間か悩んでおりまして、よろしくお願いいたします。

Yo:あの、船の形が残っているのは、だいぶ前の話の写真なので、今はもう全部埋め立てられて見えない状態になって、その埋め立てられてる状態で、凉月の形が見えるというのを会長さんがおっしゃってるっていう、なので。

Hi:ここで少し盛り上がってるんですね。凉月のちょっと曲がってる、弦型にしてちょっと曲がってるんです。ただこうああいう形に、完全に埋めるために~~そのまましたらはみ出るから~コンクリートを詰めてるから、曲がってるように見えるようになるんですね。~ちょっと少し形になってるって形ですね。~剥がれてしまいますので、そういう感じになってる~凉月の形になってるんですね。

Ma:岸壁のところにですね、柳の前の岸壁から真横に岸壁を見ますと、普通だったら直線であるはずのところが、非常にごくわずかに膨れて、ほんとにわずかに膨れてる。でも直線であるはずなんだよな、でも、ちょっとふくれてる、という場所が一応あるわけなんです。まあ、場所的にはそこが凉月の場所ではないかなと思われるのですが、実測したことはございませんし、何より
あの場所は、お墓に近いものでして、まして掘って荒らすようなことはしたくないと思っておりますので、まあ、想像を巡らすだけにしておこうかなとは思っていますが、微かな盛り上がりはあります。

発言者16:ありがとうございます。もう一つですけど、皆さんが軍艦防波堤を訪れて、柳しかないじゃないか、あれでは凉月、冬月の形を検討できず、何も、確かに立て看板が、池田さんという方が~要請して立てられた~素晴らしい話だと思うんですけど~軍艦防波堤を語る会にご要望みたいな形で、市の方に冬月、凉月の完全体のブロンズ像でもあればいいのにな~という話もあったんですけど、~ここに眠ってます、凉月はここにあります、そういうアウトラインみたいな、そういう印みたいなものをあった方がいいんじゃないかなと私個人で~ですけど、そういうことは~

Ma:私から申し上げる立場じゃないですけど、会場の方、ご存じの方ございますかね。一応市の方に少しずつ要望は上げておりますし、軍艦防波堤を市の方で取り上げていこうという動きも少しずつ見えつつ、少しずつチラチラと出ておりますが、気長に取り組んでいけたらと思っております。少しずつ取組んでおります。

Hi:最後に。タケダさん【正しくは池田さん】という方は、坊ノ岬の出動していた軽巡洋艦矢矧の乗組員さんとして、矢矧が沈没した後、冬月に助けられて、冬月と凉月の説明もない、小さな看板でするのはどうかっていうのがあって、あの看板として場所も書いてあると~そんな感じで、

Yo:時間的にも、

Hi:お話が盛り上がってきましたけど、とりあえずお時間です。この後のご案内です。空席のフリーペーパー若松物語は軍艦防波堤の特集です。何冊でもご自由にお持ち帰り下さい。この後すぐ、駆逐艦柳の設計図の現物を公開します。一年に一度です。是非ご覧下さい。ただし設計図は紫外線に弱いです。写真のフラッシュは決して使わず撮影下さい。設計図の展開中ツバが飛ぶと脆い紙が弱ります。お近くの方は口を閉じるようにお願いします。それでは後しばらくは個人的なお話や資料閲覧などでお過ごし下さい。
皆さん今日はわざわざおいでいただき、心に残るお話ありがとうございました。

Ma:どうもありがとうございました。

拍手

Hi:ありがとうございました。これから設計図の展開をいたします。是非ご覧下さい。
【書き起こし、添削終了 令和1年5月1日】
 

(無題)

 投稿者:軍艦防波堤連絡会  投稿日:2019年 4月28日(日)14時34分0秒
  元号の着いた看板を集めたページを試作しました。
https://drive.google.com/open?id=1Xwt8KfF5YMUvnu0kP5jpnw0BZGO8gnnt&usp=sharing
 

凉月の向きについての公開問答

 投稿者:軍艦防波堤連絡会  投稿日:2019年 4月14日(日)11時28分45秒
編集済
  若松の軍艦防波堤の凉月の艦首がどちらを向いているかについて、私が十年来抱いていた疑問をツイッターに公開しましたところ、
貴重なご意見を寄せていただきました。お相手様の了承を得ましたので、公開書簡とさせていただきます。(何か問題がありましたら、すぐ修正いたしますのでお知らせ下さい。)
そして、質問を寄せていただいた方への、とりあえずの回答といたします。
凉月は艦首を北向きにして冬月と向かい合っている、

冬月→←凉月 ←柳

で間違いなさそうです。
 軍艦防波堤連絡会

 平成31年4月14日

※なお、以下のpdf掲載の写真が重要な鍵になっていますので、この記事を読まれる方はご覧下さい。参照ページの一番下の方に、雑誌の写真などの引用が何ページか掲載されています。
http://zousen-siryoukan.com/wp/wp-content/uploads/funeisan/01/0115S03-01.pdf
若松港軍艦防波堤  ~ 礎:3隻の帝国海軍駆逐艦 ~  <概要>
(pdf製作者の方へ。このpdfを公開していただき、誠にありがとうございました。リンクさせていただきましたので、悪しからずご了承下さい。)
----------------------------------
●軍艦防波堤連絡会

ある方に、軍艦防波堤の涼月の向きを尋ねられて、
調べてみると、何だかどちら向きだかわからなくなってきた。
通説では冬月と涼月は艦首を向かい合わせている、となっているけれど、
昔の写真を見ていると、これが本当に艦首なのかなあって、
昔から思っていた疑問が深くなってわからなくなってきた
4月10日

通説は正しいのだろう。
国土地理院の空中写真でも、艦首はとがっている二艦が向き合っているのが、はっきり写っているみたいだしなあ。
でも、、、、、、
こんな基礎的なことが、自分でははっきりとわかっていなかったことを認識させられつつある。
4月10日

写真
国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスから
地図検索表示画面を探すと、下記のページに行きます。(このように、「出典を明示すれば使って良い」との注釈があるページです。)
ただし、注意事項に同意をした後、
もう一度リンクをクリックし直す必要があります。


https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=693681&isDetail=true

「高解像度表示」で拡大すると、1948/11/01(昭23)の、建設中の軍艦防波堤が写っています。砂州から右上に伸びる細い細い直線部分です。

通説は、
・涼月の艦首は北向き、冬月の艦首(南向き)と向かい合っている。
しかし、
・pdfの末尾の写真の涼月は、突起物が2つあって、垂直に切れており、何となく艦首には見えない感じがする。
この2つが矛盾して困っています。


◎ハスラーがががっち
4月10日
艦首で間違いないと思われます
凉月は艦首を損失する損害を受け修理した際に簡易的な形状にされた為にこのような形になったのでしょう
突起物はロープを(モヤイ綱)等を通すフェアリーダーですが流用したボラードを使っているようです

●軍艦防波堤連絡会
4月11日
返信ありがとうございます。
突起物はなるほどですが、その下が逆三角▽に垂直に切れているのが、気になって仕方ないのですが。やはりこれも、簡易的な修理の結果なのでしょうか。

◎ハスラーがががっち
4月11日
リンクの資料写真5ページ目に冬月の艦首正面がありますがそちらも微妙に逆三角形の形状になっています
凉月はさらに簡易的な形になりあのような姿になったと思われます

●軍艦防波堤連絡会
4月11日

なるほどです。
では涼月の艦首が冬月に向かい合っているとして、
涼月の艦尾に当たるはずの部分
(資料写真1枚目、資料「ページ」の34ページの手前)が
横に切り取られているのが昔から気になっていました

涼月の艦首が天一号作戦で大破したので、後に切り取られたのかと、十年前の私は思っていました

◎ハスラーがががっち
4月11日
あの部分は艦尾ではなく艦橋後部の前甲板と中央甲板の境目段差のように見えます(写真1枚目)
しかし艦首との距離が短いように見えるので艦橋を解体した際に以前艦首切断した部分から切り離した(写真2枚目赤線が最初、青が2度目の切断損害)のかもしれません(継ぎ接ぎ部分なので解体し易かった?)

●軍艦防波堤連絡会
4月12日
なるほど!です。そうすると、境目より艦尾の部分はどうなった?という疑問がわきます
pdf雑誌P34の写真
http://zousen-siryoukan.com/wp/wp-content/uploads/funeisan/01/0115S03-01.pdf
では切られて無くなったようですが、空中写真
https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=693681&isDetail=true
ではしっかりと長く残っているようです。単に写っていないだけで、艦尾も存在したのでしょうか。


◎ハスラーがががっち
防波堤にするために船体の切断は無かったと思います
資料の34Pの写真の解説部分『実によく判る』の『実』の字の辺りから立ててある梯子の脇の船体にかけてうっすらと筋が見えるのが残りの船体でしょう
甲板部分と防波堤のコンクリ部分が同じ高さなので艦首しか残ってないように見えるのかもしれません

◎ハスラーがががっち
推測ですが本格的に防波堤工事を行う際に甲板を剥がし船体内部に土砂やコンクリを流し込んだために防波堤と船体が艦首部分を残して一体化し殆ど見えなくなったのではないかと思います

●軍艦防波堤連絡会
なるほど、すごく納得がいきます。確かに薄い筋が見えますね。艦尾の部分も同様、甲板と防波堤のコンクリがほぼ同じ高さだったのでしょう。
近年の若松区役所の意見で、柳と凉月の間が随分空いているというのがありましたが、艦尾とコンクリが同じ高さなのを見逃していたのですね。謎が解つつあります

例えばこんな写真(写真三枚目)があります。(若松の小石海岸辺り、つまり裏から撮ったものです。原図はある方にいただき、公開許諾得ています。)
これで、柳と凉月の間が随分空いているのがわかりますが、実は堤防のコンクリとほぼ同じ高さで、凉月の艦橋部分と艦尾が続いている、ということなのでしょうね。

-------------------
  軍艦防波堤連絡会
この度は、貴重なご意見をありがとうございます。このやり取りを、自分の掲示板にまとめた形で載せたいのですが、ハスラーがががっちさんの文章やお写真も掲載させていただいてもよろしいでしょうか。

ハスラーがががっち
私自身の憶測も交えてのやり取りでしたのでこの注意書も入れて頂ければ掲載して構いませんのでよろしくどうぞお願いします。
-------------------
はすらーがががっちさんの了承をいただきましたので、ここにやり取りを公開させていただきました。はすらーがががっちさん、丁寧なご返信、ありがとうございました。
-------------------
追記 資料「駆逐艦「涼月」米軍撮影映像」
https://www.nicovideo.jp/watch/sm33245310
相浦に係留中の涼月を米軍が戦後すぐに撮影した貴重なカラー動画が紹介されています。公開いただいた方に感謝します。
-------------------

写真↓は、クリックして大きくご覧いただけます(写真1番目、2番目はハスラーがががっち
さん提供。3枚めは私がある方に許諾付きでいただいた原画像を使いました。)
 

語る会、皆様、ありがとうございました。

 投稿者:軍艦防波堤連絡会  投稿日:2019年 4月 7日(日)21時04分52秒
  軍艦防波堤を語る会、大盛況で嬉しい悲鳴でした。
約70名程度の大入り満員で、椅子を置く場所にも事欠く様でした。
嬉しい方にもたくさんお会いできて、嬉しいばかりでした。
素晴らしいプレゼントもたくさんいただき、身も引き締まる思いでした。

ご報告などをここにポツポツ書き込んでいきますが、今宵はここまで
よく寝て明日を迎えるつもりです。
平成31年4月7日日曜日午後9時4分
 

Kさんへ

 投稿者:軍艦防波堤連絡会  投稿日:2019年 3月31日(日)21時36分41秒
  Kさん、ありがとうございます。凄いですね。大和ですか。楽しみです。
皆さんに、どのようにご紹介するか、考えていきましょう。
 

(無題)

 投稿者:k  投稿日:2019年 3月31日(日)18時52分42秒
  今年も参加できそうになってきました。良ければ 涼月・冬月・柳 に加えて 大和 の模型を展示します。  

ありがたいです。

 投稿者:軍艦防波堤連絡会  投稿日:2019年 3月24日(日)09時09分31秒
編集済
  おお、ありがとうございます。すからんさん!
すぐ準備をします。

追記 すからんさん
午前10時50分 メールをしましたのでご覧下さい。

追記二
予備機材を持参いただけるとのこと、ありがとうございます。
 

お久しぶりです。

 投稿者:すからん  投稿日:2019年 3月24日(日)07時44分48秒
  今年のスライド資料ってもう完成しますでしょうか。
司会をやらせていただくということなので、目を通しておきたいなと思います。

また、ノートPCを新調したので、予備機材として持っていくつもりです。
 

期日前投票を

 投稿者:軍艦防波堤連絡会  投稿日:2019年 3月21日(木)11時14分13秒
  【お薦め】
 軍艦防波堤を語る会の当日4/7は、
「選挙」を実施する地域がたくさんあります。
(福岡県は県知事・県議会議員選挙です)
当日の投票、または期日前投票を是非しましょう。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
「期日前投票」で検索しましょう。
例えば北九州市では
http://www.city.kitakyushu.lg.jp/senkyo/file_0041.html
下に期日前投票があります。
 

第十回 軍艦防波堤を語る会 おいでください

 投稿者:軍艦防波堤連絡会  投稿日:2019年 3月20日(水)21時53分9秒
編集済
  2019年4月7日(日)13時~15時
旧古河鉱業若松ビルにて
http://suzutsukimamore.web.fc2.com/index.html
◎「凉月」乗組員、太田五郎氏の実子
●「凉月」駆逐艦長の孫
 「柳」乗組員の実子、来場予定
●「柳」設計図公開
昭和20年4月7日は沖縄海上特攻で
大和や 冬月、凉月ほかが闘った日です
画像提供 蕎麦屋様
 

語る会 来場予定など

 投稿者:軍艦防波堤連絡会  投稿日:2019年 2月 6日(水)23時00分7秒
  軍艦防波堤を語る会の話題予定
●駆逐艦「凉月」駆逐艦長の孫、来場予定!
「軍艦防波堤を語る会」の誕生を語るか。
●駆逐艦「柳」乗組員の実子、来場予定!
●駆逐艦「柳」設計図【実物青焼き】年に一度の公開。
 

行動予定

 投稿者:軍艦防波堤連絡会  投稿日:2019年 1月 9日(水)21時10分22秒
編集済
  書類上のことで少し曖昧になっていた
4月7日の軍艦防波堤を語る会、
会場の旧古河鉱業若松ビルに電話して、場所がちゃんと押さえられていることを確認しました。
ポスター貼って大丈夫だそうです。
今度の週末印刷して、三連休で貼り回る予定です。
 

2019年の語る会、やります

 投稿者:軍艦防波堤連絡会  投稿日:2018年12月31日(月)18時32分13秒
  軍艦防波堤を語る会
2019年4月7日(日)13時~15時頃
旧古河鉱業若松ビルにて
ご参加ください
昭和20年4月7日は、沖縄海上特攻で大和や
冬月、凉月ほかが甚大な被害を受けた日です
特別なことは出来ず例年と同様ですが発表者を募っています
http://suzutsukimamore.web.fc2.com/index.html
 

北九州市への提言

 投稿者:軍艦防波堤連絡会  投稿日:2018年11月11日(日)12時55分28秒
編集済
  以下は、北九州市役所総務局総務部総務課に書き送った提言です。言葉足らずの点があるかと思います。どうか皆様の応援をお願いいたします。軍艦防波堤連絡会
---------------------------------------------------

 11月9日、NHKで北九州市の(仮称)平和資料館基本計画について知りました。素晴らしい計画を立ち上げていただき、ありがとうございます。
 この計画の中に是非盛り込んでいただきたい事があります。若松区響町の北九州港に今も実在する「軍艦防波堤」についてです。
 これは建設当初、「柳」「凉月」「冬月」という3つの駆逐艦で出来ていました。戦後、洞海湾の防波堤にする資材が極度に不足したことから、昭和23年頃、旧海軍の駆逐艦を防波堤に転用したものです。それ以来、戦後の混乱期の人々の暮らしや復興を荒波から守り続けて今に至ります。

 「凉月」「冬月」は昭和20年4月7日に沈んだ戦艦大和と共に沖縄海上特攻を闘った艦です。特に「凉月」は、沈没寸前の状態で奇跡の生還を果たした艦として有名です。防波堤になってしばらくして、台風などで壊れたため二艦はコンクリートに埋められましたが、今もこれらを偲んで訪れる人々が跡を絶ちません。

 この道標の役割を果たしているのが「柳」です。「柳」は第一次世界大戦で地中海まで遠征し、人命救助を続けた百年以上も前の艦ですが、今もその艦型を見ることが出来る貴重な戦争遺産です。鉄でできた軍用艦でその艦型を留めるものは、ここ以外にほとんど見られません。人々にかつて戦争があったことを、隣に「冬月」「凉月」が眠ることを、手で触ることのできる姿で示し続けています。若松区高塔山には「軍艦防波堤三艦慰霊碑」も建立されています。
 私達、軍艦防波堤連絡会(小規模な市民団体)では、8年近く、この広報のため毎年4月に「軍艦防波堤を語る会」などを行なってきました。毎年40名前後の人々に来ていただき、様々な実物資料の所在を確認しております。
 「柳」の設計図は実在しておりますし、戦後の混乱期の人々の暮らしや復興を守った艦が、実はこんな素性を持っていたという驚きは展示に値する貴重な実物だと思います。是非とも(仮称)平和資料館の展示に、軍艦防波堤を加えていただきたくお願いいたします。

軍艦防波堤連絡会
 

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