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書き直すための備忘録です。
想定問答集9-21 投稿者:抹茶 投稿日:2020年 9月21日(月)12時58分16秒 編集済
軍艦防波堤についての、問答集です。ご覧下さい。(9月21日の語る会で使おうかと準備していました。)
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Q0,艦艇が防波堤となって経緯を教えて下さい。
軍艦防波堤が作られた経緯が、国会議事録に載っていますのでご覧下さい。
020 菊池義郎 氏の発言に詳細があります。
https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=100205254X07119480626
Q1,「凉月」と「涼月」、文字がニスイとサンズイで違います。どちらが本当なのですか?
どちらも正解だという事になっています。海軍の正式な書類では、サンズイの涼月が使われていたようです。
若松の高塔山を舞台に、戦後しばらくしてから始まり、三十年以上にわたって行われてきた戦友会である「凉月会」では、案内状の差出人のゴム印にも、ニスイの凉月がずっと使われ続けてきました。使われた期間としては一番長いと思います。この戦友会「凉月会」は戦後の長い期間この名前を使い続け、一方多くの人はこの名を忘れかけていました。
戦後何冊かの著書が出版され、凉月に触れた個所ではニスイの凉月に統一して使われました。
戦友会の活動は規模が徐々に縮小しましたが、最近(この二十年ほどで)凉月の名前が再び語られるようになりました。
ただ「涼月」がパソコンで簡単に変換されることや、海軍の正式な帳簿にも載っていることから、現在はサンズイの涼月が多く使われている現状があります。
(スズシイと入力して変換していけば、凉は割と出てくるのですが。)
何十年もニスイの凉月を使い続けてきた人々にとっては、突然の事態をどう思われたことでしょうか。
今も大切にこの文字を使い続ける方々はいます。軍艦防波堤連絡会でもニスイの凉月を使っています。一部関係者の著書としてwikiで触れられる、ニスイの凉月を使っている著書は例えば以下のようなものです。
ただこの違い、割とどちらでも良いものだったらしく、当時の軍関係者はどちらの文字も使っており、点の一つにこだわっていなかったように思われます。
パソコン、ワープロのない戦時中は手書き文字がほとんどで、活字は本当に限られた文書などでしか滅多に使われず、ニスイだのサンズイだの、点が一つあるかないかは、その時の気分と手のブレなどで許容の範囲内だったと思われます。どちらでも良かったのでしょう。
残っている手書き文字にも、点が一つあったりなかったり、表記が適当である事実が残っています。手書き文字の中には、点が二つだか三つだか、見ても区別が付かない文字すらあります。活字の少なかった時代に、手書き文字は許容範囲が広かったわけです。
凉月、涼月は今後も、どちらも正解だとするwikipediaの見解に沿っていくことと思われます。例えば、日本を二ホンと呼ぶのと、ニッポンと呼ぶのと、どちらも正解だとするのと似た事情かと思います。
参考
http://jikototasha.blog.fc2.com/blog-entry-17.html
Q1-2,一部関係者の著書では、ニスイの凉月の文字が使われていると言われます。どんな書籍ですか
「海ゆかば…駆逐艦隊悲劇の記録」倉橋 友二郎(駆逐艦凉月元砲術長)著 徳間書店(1967年)
「軍艦防波堤へ―駆逐艦凉月と僕の昭和二〇年四月」澤 章(元凉月駆逐艦長・平山敏夫中佐の孫)栄光出版社(2011年)
「若松軍艦防波堤物語―戦いの記憶を語り継ぐ」福岡県人権研究所(2013年)など
{若松の軍艦防波堤の現地看板にも「凉月」の文字あり}
Q2,どうして軍艦防波堤の涼月、冬月は、コンクリートに埋められたのですか?
若松の港を守った軍艦防波堤に使われた船体のうち、特に「冬月」「凉月」の船体は、一部の人によってその鉄材が剥ぎ取られ、時にはガスバーナーを持ち込んで切り取る者もいたようで、ちょっとした現金収入になったようです。
昭和37年頃には内部にまで波が入り込む状態となり果て、そこにまた激しい台風などで暴風雨が吹き込み、崩壊の危機にあったようです。
そのため、崩壊防止と安全上の措置としてクレーン船作業によって撤去され、コンクリートを被せられました。工事に入る前には、10分近くも続く黙祷と、極めて丁重なお払いがなされたそうです。
Q3,鉄泥棒というのは、どんなことですか?鉄泥棒を、どうして取り締まらなかったのですか?鉄泥棒はとても悪い罰当たりな行為ではありませんか?
鉄泥棒、実は何の悪気もなく、釣りに行って魚を釣る程度の気分で、「ちょっと鉄取ってくるわ」と、気軽に自転車で出かけていたという話も聞きます。
当時の軍艦防波堤付近は、別に立ち入り禁止の立て札や看板があるわけでもなく、誰でも自由に入れる所でした。できた当時は狭い海に隔てられて、歩いて行ける場所でもなく、国や自治体による施設としての管理もほとんどなく、ちょっと小舟で渡れば誰でも勝手に鉄材を持っていけるような場所だったようです。
何も警告もないわけですから、そこから何を拾って行くにしろ、彼らに悪気などなく、砂浜で貝殻を拾った、釣りで魚を釣った程度の気分でしかなかったでしょう。
ましてや、かつては栄光ある帝国海軍の艦艇であったという話は、戦争で負けたのならもう自分たち国民の物だという意識になり、自由に取って構わないという気分が漂っていたとしても、誰も咎めるものでもなかったでしょう。
むしろ、困窮していた戦後の市民に対して、その身を削りわずかの小遣いになってくれる艦艇の亡骸は、現代風に言えばまるで自分の顔を飢えた人に分け与える「アンパンマン」のような存在だったのかもしれません。
高張力鋼という高価で強靭な鉄材を多用した第二次大戦時の最新鋭艦、冬月、凉月の鉄材は、利用価値が高く、廃材屋に高値で売れるので剥ぎ取られましたが、「柳」は大正時代の駆逐艦であり、その鉄材はあまり高く売れなかったのか、盗難被害は少なく、37年の撤去工事後も船体の形を残すものだったようです。
当時は軍艦防波堤を厳重に管理していた記録は見当たりません。経済的に困窮した市民の立場で見るならば、単に打ち捨てられた鉄屑に等しいガラクタ。それを取ったからとて、「鉄泥棒」という悪名を若松市民に押し付けるのは、ちょっと名前が悪過ぎないかな?という気もしています。まあ、ガスバーナーで切り取ったのはどうかとも思いますが。
Q4,主催者の方は、どうして軍艦防波堤に関心を持ったのですか。何かの関係者ですか?
主催者は、親戚縁者ではなく、ここと直接の関係はありません。むしろ、戦争という話題には拒絶感を持っていた世代です。
ただ、1999年、たまたま目にした地名の本に「軍艦防波堤」の写真が載っていて、こんなものが自分の故郷若松にある事を初めて知りました。(その頃私は三十代でした。)興味が湧き訪ねてみて、奇妙な姿に驚きホームページに写真を載せました。
その写真が色々な方の目に留まり現地を案内するうちに、ここを大切に思って熱意を持って訪れる方々との間に交流が生まれました。
当時は今ほどこの場所に注目がなく、現地に近い私がここを知らぬ振りすれば、ここを話題にする人は案内されない事を予見していました。ネット検索しても、ヒットするのは二件程度でした。
2000年には現実に災害で現地は大崩壊し、放置すれば確実にここは撤去される運命にある事を知りました。しかし知り合った人々はここをとても大切に思っていました。この人々との絆から今も活動を続けています。
Q5,凉月は、この沖縄特攻だけではなく、何度も大破したと聞きます。どんな被害を受けたのですか。
沖縄海上特攻の前年
1944年、昭和19年1月16日、宮崎県東方100km地点で米軍から攻撃受け、船は同時に前後を破断。約250人が死亡。ギリギリで沈没を免れ、ダルマ状態になった艦中央部のみが辛うじて呉に曳航される。
「造船士官や工員たちはその姿を見て一様に絶句、「なんで沈まなかったのか不思議」が一致した感想だったという」
引用下記より
https://wikiwiki.jp/kancolle/%E6%B6%BC%E6%9C%88
同年10月16日
宮崎県都井岬沖でまたも雷撃を受け2発が命中。新造したばかりの艦首の舳先から一番砲塔のすぐ前までの部分がもぎ取られた。死者2名、他被災。
これらの事実は、菊水作戦の件ほどは語られませんが、元乗組員の太田五郎さんらは、これらの大破で亡くなられた方々が浮かばれないと、ずっと案じられて、いつも手を合わせておられました。
Q6,三隻はなぜ、若松に連れてこられたのか。いつ頃連れてこられて、いつ頃コンクリートに埋められたのか?
まだ書いていない。●●
Q7,若松区高塔山慰霊碑には「柳、昭和二十七年 津軽海峡において(中略)艦尾を大破 大湊港外に擱座」とあります。柳は第二次大戦時の松型のもので、青森の大湊で沈められたとの意味だが、この記述は正しいのか?
柳は「昭和の松型駆逐艦、二代目柳ではないのか、という誤解」が昔から存在します。高塔山の慰霊碑の記載もこれです。しかし失礼ながらこの記載は間違いです。
Wikiによると二代目、松型「柳」(第二次大戦時の艦)は全長100m。しかし若松の軍艦防波堤の柳は実測したところ全長86m。全く長さが足りません。かと言って艦尾が折れているわけでもなくきれいです。若松の柳は、第二次大戦時の松型柳とは全く違う長さの艦です。
また、松型、二代目柳は艦尾が大破したと記録があります。しかし若松の柳は、とがった艦首から丸い艦尾まで明瞭に姿が残っており艦尾は大破した跡は見えません。
(青森県大湊には、松型駆逐艦、二代目柳の慰霊碑が現存します。もし若松の慰霊碑記述が本当なら、艦尾が大破して「擱坐」(船が浅瀬にのりあげること)しているのを、わざわざ海から引き上げ、はるか青森から若松まで、大破して波に浮いていられない松型柳を曳航した?事になりますが、これはあまりに奇妙な長旅です。)
軍艦防波堤研究のパイオニア・戦捜録HP作者 望月創一氏の意見では
『二代目の「太平洋戦争に参加した」柳は、大湊で解体された。
(若松区の柳の)艦首形状は大正期以前の旧式艦特有のもの。若松区の柳は初代に間違いない。 』です。
高塔山慰霊碑の記載は、ネットのなかった時代、いくつかの著書の記載を転記したものでしょう。この誤解は非常に広く広まって今も残っています。
参考
https://6309.teacup.com/maccha/bbs/535
若松の軍艦防波堤 柳は、間違いなく大正時代、第一次世界大戦で活躍し、第二次大戦時には既に除籍され、佐世保で旧制中学等の練習船として使われていた「桃型駆逐艦、初代柳」で間違いありません。
Q7-2,練習船として佐世保で使われていた頃の柳のエピソードはありますか?
こちらをご覧ください。旧制中学の生徒が柳で体験したことが生き生きと描かれています。
http://suzutsukimamore.web.fc2.com/siryo/siryo-yanagi-1.html
Q8,高塔山の慰霊碑は分かりづらかった印象です。地図はありますか?
こちらにあります。
https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1qidSTvkInyYfokx9kih6v-H7QWw&ll=33.90436444456181%2C130.79969020000001&z=18
Q9,軍艦防波堤へ行くのに何度も迷いました。タクシー運転手でも知らなかった。地図はありますか?
地図はこちらにあります。会が「複雑交差点」と名付けた、大変分かりづらい交差点で多くの人が迷います。ここさえ通過すれば辿り着けます。(地図参照)地元若松でも、まだ知らない人がほとんどです。タクシー利用の際も、この地図を紙に印刷して持たれるのが無難です。
http://suzutsukimamore.web.fc2.com/9.gif
Q10,「軍艦防波堤へ」の一節に、凉月の形にコンクリートの岸壁が曲がって見える、とあります。実際に凉月の形が見えるのですか?
凉月の一部の痕跡だろうと思われる、コンクリート壁のごくわずかな湾曲の痕跡が岸壁に認められます。
こちら↓をご覧ください。
https://6309.teacup.com/maccha/bbs/562
Q11,涼月の船体が、現地に一部見えるという話がある。本当か?
柳の手前のコンクリートの地面に、ごく一部、鉄材の一部が小さく表面に現れていている部分が確かにあります。しかしこれは(実測したわけではないのですが)位置関係からして凉月本体というよりも、柳と凉月の間に置かれていた事が設計図に残されている、「方塊」と名付けられた小さな四角い構造物ではないかと思われます。この「方塊」がそもそも何に使われていた構造物であるかについては、誰に聞いても定かな所はわかりませんでした。
「方塊」の存在を示す、防波堤全体の設計図は存在しますが、版権上出せないので、大まかな見取り図を示します。
https://twitter.com/gunkanbouhatei/status/1127913764773187585/photo/1
https://twitter.com/gunkanbouhatei/status/1127913764773187585
Q12,百年前の、柳艦上で書かれた地中海日記は、どこで見られますか
活字文字に起こしたものはこちらです。普通は活字が読みやすいでしょう。
http://suzutsukimamore.web.fc2.com/siryo/kakiokosi.html
画像はこちらです。当時の肉筆の実物写真です。生身の温もりが残ります。ダウンロードしてご覧ください。日記筆者の家族の方から、提供いただきました。
http://suzutsukimamore.web.fc2.com/siryo/nikki.html
Q14,柳の設計図は、見ることができますか
こちらから閲覧できます。自由に使うことができます(著作権は放棄されません)。戦捜録HP作者 望月創一様に提供いただきました。
ミラー1
https://1drv.ms/f/s!AizdZ65Jwic4gaMg1VMb4rvZKrJDiA
ミラー2
https://www.amazon.co.jp/clouddrive/share/NEX8xabyoVlp8gSKYY2xh1Vyv711zaSUh1SYRE8srwU
Q15,軍艦防波堤は、なぜ若松にあるのですか?
北九州、中でも官営八幡製鉄所では、戦前から日本の鉄の多くを生産してきました。日本の産業の要でした。そこに出入りする船舶の安全を守ることは、焼け野原となった戦後日本の復興の礎として大変重要な事業でした。
比較的近かった佐世保港で整備された三隻が曳いてこられました。
Q16-1,軍艦防波堤は、他の所にもあるのですか?
日本各地に、軍用艦艇を流用したいわゆる「軍艦防波堤」が、かつて十カ所前後ありました。しかしほとんどが錆びて朽ち果ててしまい、鋼鉄製の船舶としてその艦形が視認できるのは、ほぼ若松の「柳」のみです。
ただ、鋼鉄製の艦艇による軍艦防波堤はほぼ見られなくなりましたが、コンクリートで造られた艦艇は,潮風に強く何隻かその形を留め、錆にやられないため未だに現役の防波堤として活躍しているところもあります。
参考
http://suzutsukimamore.web.fc2.com/siryo/siryo-seigo.html
Q16-2,軍艦防波堤ができて、若松の港にどんな影響がありましたか。
例えば、若戸渡船の乗り場は、防波堤ができる前は少しでも風が吹くと大波が響灘から打ち寄せて、乗り降りも危険だったようです。それが防波堤ができると、嘘のように波が無くなって乗り降りが安全になったそうです。
Q17,コンクリート船というのは、どんなものですか?
戦争末期、物資不足で鉄材が極端に不足した頃、鉄材の使用を極力減らし、代わりにコンクリートで造られた船です。現在は広島県安浦港に防波堤として設置されている「第一武智丸」「第二武智丸」は、軍事用燃料の輸送にあたったそうで、(柳のいる)若松の石炭も運ばれた話があります。
広島県音戸・坪井漁港の防波堤として現役で使われているコンクリート製の被曳航油槽船は、自走はできず、普段は海中に半分沈められ、動くときは他の船に曳航されていたようです。
防波堤ではありませんが、山口県笠戸島に残るコンクリート船の残骸も、燃料などを貯蔵して普段は海中に隠され、必要な時に浮かせて曳航されたようです。
ただ、戦争最末期という時期もあり、コンクリート船が使われる機会は少なかったとも伝えらます。大変堅牢なコンクリートで念入りに造られたため、現在でもしっかりとした構造を残すものがあります。
その他、瀬戸内海の小島には、コンクリート製のドラム缶が、所々に残っているらしく、鉄材不足をコンクリートで代替を試みた先人の苦労の跡がうかがわれます。
Q18,岩国港の軍艦防波堤とは?
戦後、日本各地に計画された軍艦防波堤の中には、計画だけはされたが実現に至らず、実際の形跡が認められない所が何カ所かあります。岩国港の巡洋艦「平戸」もその一つで、実際には存在しないと思われてきました。
しかし、まだ未確認情報ではあるのですが、下記のような仮説が考えられています。
終戦時、平戸は既に除籍処分(船という扱いが消滅)となっていたため、財務省の防波堤用埋設艦艇一覧表という帳簿上には存在しなかった。帳簿上存在しないため、恐らくは廃材か何かの扱いを受けていたのかもしれない。しかし平戸の船体(の残骸)はおそらく防波堤代わりに、岩国港沖合に沈設されたか擱座していたか、その写真らしきものがネット上に存在した(現在は削除されている。)。現在現地にはもちろん既に存在しないようだ。
岩国港は戦後長い間米軍の管理下にあり、一般人は立ち入れず、存在の確認すらしようがなかったのだが、写真とその背景の山並み比較から、岩国港にあったと確信されつつあり、確認作業が一部関係者の手で進められるかもしれない。いずれ軍艦防波堤の歴史を塗り替えられる可能性もある。
https://twitter.com/ntfiv/status/1135451426765692928
Q19,長崎の川棚にも、軍艦防波堤が存在したらしいという事ですが?
第二次大戦後に全国十カ所ほど作られた軍艦防波堤のシリーズとは違い、それ以前に古い艦艇を防波堤として流用したものらしいです。今はもう姿が見えませんが、地元の人々がその歴史を残そうとしているようです。
参考
https://twitter.com/gunkanbouhatei/status/1164878391192854528
https://twitter.com/gnoseminateipon/status/1096214267987034112
Q20,ほんの十年前まで、戦争を話題にすることはタブーでした、と配信の中で言われましたが、そんなにタブーだったのでしょうか。まじめに戦争や平和について教育する先生もいたようですが?
戦争を今のように、ゲームの話と絡めて身近に気軽に話題にできる世相ではなかったことを言っています。
確かに、真摯な教育者の皆さんなど、平和教育を丁寧にされている方々はおられましたが、
それすら、何一言いうにも慎重に言葉を選び、右や左の方々からのご批判を受けないように、ずいぶん気を使っていたものでした。
今のように、学校やマスコミとは別の、ゲームやネットの世界から戦争を知る若者が増え、
その中に散りばめられた膨大な歴史知識に接するようになったので、ようやく戦争の事実そのものに意識を向ける圧倒的な数の若者が増えてきたように思います。
それ以前は、右か左の政治主張のバイアスがどこかに入り込んだ、誰かに吹き込まれた知識で戦争を語っていたのではないかと思われてなりません。
自分の目と耳と手と足とで、戦争を調べ、真に自分の頭で考えた若者が十年前にどれほどいたでしょうか。今の数百万の数には到底及ばなかったでしょう。
ほんの十年前に、ガダルカナルやインパールを自分から調べようとする若者がどれほどいたでしょうか。
今のネット環境とゲーム、アニメの流行は、それを可能としています。
この自由な空気の中で己の知識欲の赴くままに調べ抜く若者達の空気と、十年前の雰囲気とを比較して、敢えてタブーだったと表現してみました。
Q21,戦争について話していたら、戦争はそんなもんではないと否定されました。そんな経験はありますか?
どこかの大学の先生が、ゲームの艦これで得た知識を答案に書いた若者を馬鹿にして、「こんな艦これの受け売りはする奴は「不可」にしてやったぞ」とご立派なマウント取っておられました。
せっかく興味を持ち、学び始めた若者がいるなら、どうしてその興味を育てていくことをしないで、自分の知識が唯一の正解だとひけらかし、若者の学習意欲を摘んでしまうのでしょう。
この先生が御立派な歴史知識を教授した今までの若者の中に、どれだけの人数が自発的に戦争事実に向き合い、自ら調べようとしたでしょう。
艦これはじめ、数百万の戦争ゲーム、アニメファンの数の足元にも及ばないはずです。もちろん、そのすべてが望ましい学び?をしているかどうかはわかりません。
しかしたとえ1%しか、望ましい学びをしないとしても、少なく見積もって数万人の若者は、自らの手で、今まで一般学生達から見向きもされなかった、戦闘時代の詳細な史実に、真摯に向き合っています。
今までの大人が、高尚な教壇から、大学の講壇から、同じことを為し得たでしょうか。
そんな時代は長くなかったはずです。
かつて学生運動が華やかな時代ですら、一つ一つの戦争事実をコツコツと学んだ学生がいたでしょうか。多くは右か左の政治思想の受け売りをしていたはずです。
翻って今、戦争体験、知識をひけらかし、他者を侮蔑する行為は、自分が優れていることを称賛されたいだけの虚しいマウント取りが目的であって、共に平和を創造する行動をその人は忘れています。
戦争の真の姿を知り、平和を地道に隣人と共に一つずつ探し求める、創る行為をしたいのなら、虚しいマウント取りではなく、若者の知識欲を伸ばし育てることをこそ大人は意識して行なうべきです。
Q21,柳以外に、戦時中の艦船で姿が見られるものがありますか?
防波堤ではありませんが、横須賀に記念艦「三笠」があります。これは、しっかりと保存されていて、見学もできるようです。 https://www.kinenkan-mikasa.or.jp/
Q22,軍艦防波堤三艦慰霊碑についての資料はありますか
若松海友会作成の資料を閲覧できます。手書き文字ですが、貴重資料ですので是非ご覧下さい。
http://maccha777.gozaru.jp/gun-siryo.html
Q23,軍艦防波堤についての、簡単な解説書はありますか
下記を印刷してご覧ください。A4版二枚です。
http://suzutsukimamore.web.fc2.com/gun-hayawakari.PDF
以下、少しずつ付け足していこうと思います。ご質問ご意見お待ちします。
軍艦防波堤連絡会 代表のつぶやき
「戦争を知らない子供たち」という歌が、1960年代に流行しました。
若過ぎるからと、戦争を知らないからと、戦争経験者が若者を拒絶した時代の歌です。
もちろん、戦争を知らない若者に親切丁寧に語るほど、戦争は生やさしい体験ではなかったでしょう。
言語を絶する限界を超えた体験を、語る言葉もなく、聞いてもらえるあてもなく、仮に語っても、返ってくる反応は現実の地獄の実感とずれており、
なまじっか戦争を語る若者には、「戦争はそんなもんじゃねえ」と拒絶する断絶。それは実は今でも、関係者の中ですら続いています。
「お前の言う事は、体験者の真実を語っていない。戦争の残した苦悩と悔恨はそんなもんじゃない。俺はお前の空虚な言葉に傷ついた。もうお前とは語らない。」
私もつい先日、関係者からそんなことを言われました。
はっきり言います。少しでも戦争を知っている人が、いつまでもそんな拒絶を続けているから、だから語り継ぐ事ができないのです。
たとえ自分がこうあってほしいという戦争観があったとしても、それはあなたの思うことでしかありません。
私はあなたと別の人生を生きています。
他者があなたの思いと違っていても、拒絶することでは何も共同作業は生まれません。それでは未来はあなたと私と、隔てられたままに終わり、そこから戦争は生まれるのです。
人類は、その発生以来、常に他の集団の生存を奪い合い、絶えることなく戦争を続けて、現代も戦争は世界のあちこちで続いています。
日本でほんの75年間、奇跡的に戦争がなかったとしても、それはほんの幸運による一時的な事象で、いまや崩れつつあります。
常に火種はあり、いつでも人類は「戦争をやりたい」一面を確実にDNAの中に持つ生き物です。
人は戦争をいつでもやりかねない生き物なのです。起こしてはいけないと、口先で言うだけでは本能を制御するのに足りません。
あなたの隣にいる人と、たとえ意見は違っても、ともに未来の平和を作り出す作業を、できるかできないかが分かれ道です。
ほんの小さなこと、この軍艦防波堤について語り合う事すらが、未来の「何か」を作ると、信じたいと思うのです。
右や左の思想に惑わされず、自分の頭で戦争の事実を学ぶのに都合の良い方法として、私は実物から学ぶことをお勧めできます。
人の言う事、書いてある事から始めるのを一時停止して、語らない何物かの「物」語りに静かに耳を傾ける方法です。
自分の耳と、目と、手触りと、匂いと、体の感覚と、全てを総動員して自分の頭で考えて、自らの感覚が望むチャンネルを選び取り、自分からアクセスする。
そこで出会う人と、初めて意見を交流する。自分のために、自分の知的好奇心を道すために情報をつかみ取る。
そんなワクワクする智慧の冒険を、例えば軍艦防波堤に触る事から、始めてみましょう。
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