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凉月、豊後水道での被害者の慰霊について

 投稿者:軍艦防波堤連絡会  投稿日:2022年 1月12日(水)16時06分59秒
  駆逐艦凉月に関心のある方、ぜひご覧下さい
https://www.yomiuri.co.jp/local/kyushu/news/20220112-OYTNT50008/
 
 

澤章さん「軍艦防波堤へ」ソフトカバー化

 投稿者:抹茶  投稿日:2021年10月11日(月)21時40分27秒
編集済
  東京在住、澤章さんの「軍艦防波堤へ」が、今月にソフトカバー版になります。Amazonで予約注文可能。

表紙は「軍艦防波堤を語る会」の実行委員長(北九州在住)による渾身のデザインです。

本文から思い起こす情景を夢の一場面のように描いてあり、子供にも親しみやすいです。
お知り合いにも是非お知らせ下さい。

https://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4754101790/ref=ppx_yo_mob_b_track_package_o0_img?ie=UTF8&psc=1

 

無料版へ移行

 投稿者:軍艦防波堤連絡会  投稿日:2021年 9月15日(水)16時21分28秒
  このページを無料版に移行するため、書き込み方法に関する上部の説明などが消え、そして広告が表示されます。
内容の閲覧や書き込みは今まで同様可能です。今後ともよろしくお願いいたします。
 

語る会、やり取りの記録

 投稿者:抹茶  投稿日:2021年 6月12日(土)21時29分54秒
編集済
  今年の語る会のやり取りを書き起こしました。

2021.4/4 旧古河鉱業若松ビルでの、軍艦防波堤を語る会での会場とのやり取り、書き起こし(作業者 松尾)

司会:中嶋さん、若菜さん、水上さん、ありがとうございました。(大きな拍手)
それでは只今より質疑応答に移りたいと思いますが、司会より発言される際のお願いをします。感染防止のため、必ずマイクシールドに向かってお話し下さい。マイク無しでの発言はどうかご遠慮下さい。
さて質問に入る前に、ここで沖縄特攻時の駆逐艦涼月艦長のお孫さんで、「軍艦防波堤へ」の著者でもある澤章(さわ あきら)さんをご紹介いたします。本日飛行機の予定により、残念ながら澤さんはこの後、途中で退席する予定となっております。澤さんにご質問の方ありましたら、この時間にお願いします。
澤さん、すみません、一度お立ち下さい。
澤:はい、よろしくお願いします。(拍手)
司会:澤さん、本日はお忙しいところ若松に来ていただき、誠にありがとうございます。
澤:ありがとうございます。
司会:軍艦防波堤を語る会を、昨年は新型コロナウィルスの影響で、この会場で行なうことができませんでしたが、今年は例年と同じような形でこの会場で行うことができました。
澤さんの方から、何か一言ごあいさつお願いします。
澤:すいません、東京から飛んでまいりまして、すぐ帰らないといけないんで申し訳ないんです。
13年前に私が五十を前にして私が祖父のことを調べ始めまして、インターネットで調べていた時に、たまたま偶然見つけたのが松尾さんのホームページだったんですね。全く知らなかったんですけども、勇気を出して彼にメールをして、初めて小倉の新幹線の改札で会いました。で、そこから彼と二人で当時まだご存命だった涼月の元乗組員の方、太田五郎さんとか、宮原明さんの所に押しかけてお話を聞いたりして、それを元にしてまとめたのが「軍艦防波堤へ」という、素人の小説みたいなものなんですけども、で、彼と一緒に佐世保とかにも行きました。相浦にも行って、多分ここに係留されていたんだろうなっていうような場所の特定もしたりとかして、で、そうこうするうちにこの会自体がどんどん地域に広がっていって、ここまで大きくなってきたっていうこと、ほんとに誇らしく思いますし、是非地元のみなさんがですね、軍艦防波堤の事をもっともっと広めていただければ、ほんとにありがたいと思います。
私の個人的な願望としては、軍艦防波堤をテーマとした映画とか、ドラマとか、有りうるんじゃないかなと、ずっと思ってまして、そんな事がいつの日か実現できればいいなと思いますし、この語る会ですね、毎年毎年開かれていくことを望んでおります。ありがとうございました。(拍手)
司会:澤さん、ありがとうございます。それでは只今から質疑応答に移りたいと思いますが、澤さんは本日飛行機の関係で途中で退席されることとなっております。もし澤さんに質問などがございましたら、この時間にぜひお聞き下さい。それでは、質問のある方は挙手をお願いします。

発言A:すみません、質問と言うよりはちょっとご報告のような形になります。私、前回の防波堤を語る会の後で、涼月ではないんですが、ふゆづき、現在の護衛艦ふゆづきの見学会があった際に、ふゆづきの乗組員の方とお話をする機会がございました。その際に、涼月はメインなんですけど冬月もまとめて、防波堤を語る会という存在が毎年行われておりますということを幹部の方に話されて、すごく、まあ自分は主催とかそういう関係ではないんですけど、とても感謝のお言葉をいただいて、そんな会とか続けられたらとても嬉しいですっていう言葉をいただきました。
そこで聞いた話ですけど、その後ふゆづきが下関に寄港した際に、幹部の方々が慰霊碑の方に詣られたってということもあって、ふゆづきの方では積極的に昔の船のことについても感謝してるんだなってことも感じました。自分からは以上になります。

司会:ありがとうございました。他にご意見やご質問等がある方。澤さん以外にも、質問などありましたら、この時間にお願いします。

スタッフ:一言よろしいですか。ちょっとご報告いたします。この会、来ていただき、本当にありがとうございます。そして、この会に来たくても来られなかった方、そして毎年飛び込みで来るんだけれども、今年も知らずに来てみたという方、たくさんたくさんおられたんです。その方たちに申し訳ないですって言ってお断りいたしました。どうか皆さん、ほんと、ありがたいお話です。是非ともこの時間を有効にですね、どうぞご質問、ご意見等お寄せ下さい。澤さん、中嶋さんのお話ばかりでなく、他のことについても、質問をどうかお寄せ下さい。お願いいたします。

司会:ありがとうございます。ご意見、ご質問や、中嶋さんの朗読の感想など、何かありましたら是非、あ、ではお願いします。

発言B:素晴らしい会をありがとうございました。小倉北区に住んでおります。澤さんの本も読ませていただいて、このような北九州市に歴史があったことを私は今まで知らずに五十年近く生きてきたことを恥ずかしいなと思いましたけども、今日のような会に参加させていただいて、また素晴らしさも感じました。そして、ほんとに感想になってしまうんですけど、さっきの中嶋さんの朗読を聞いて、人の絆とか、命をかけて守った方々の生き様っていうのを非常に感動して、人間同士だけじゃなくって、その艦への思いなんかがとてもあるということにも暖かさを感じることができました。ほんとにありがとうございました。

司会:ありがとうございます。

発言C:今日はほんとにありがとうございました。私の友人である中嶋かつ子さんの朗読で冬月、涼月を知った時に、私も同じ北九州の人間だったのに、こんな事がっていうのを初めて知って驚きました。私自身もこの若松の軍艦防波堤に行ってみました。こんな所にあるというのが、ほんとに(聞き取れず)皆さんご存じないなというのがとても残念に感じました。そして見させていただくと、本当に老朽化というか傷みが激しくて、見ていていたたまれない気持ちもありました。今後これをどういうふうに守っていくのか、皆さんの思いというのが(聞き取れず)、形としてどうやって保存していくのかなっていうのがとても気になりましたので、今後どういうふうにしてこういう物を残していくか、市民の力だけなのか、それとも市や他のものに協力していただくのか、そういうような動きがどうなっているのかなというふうに思いましたので、ちょっとここで質問させていただきました。今日はとても素晴らしいものを聞かせていただきましたし、みなさんが長い間努力されて作ってこられたこの会を見ることができて本当に良かったなと思います。ありがとうございます。

司会:ありがとうございます。

発言D:甚だ簡単ではありますが、この会を拝見させていただきまして、命をかけて日本の国を守ってくださった方々の姿を、中嶋かつ子さんの朗読を通じてひしひしと感じました。本当に(聞き取れず)ていただいて良かったと思いました。ありがとうございました。失礼します。

司会:ありがとうございます。

発言E:今日は貴重なお話ありがとうございました。今日、私初めてこの会に参加させてもらいまして、実はうちの婆ちゃんの兄弟二人も海軍で二名戦死しております。写真とかも家にあるんですけど、あんまり婆ちゃんからそういう話を聞いたことなかったので、今回こうした貴重なお話を聞かせていただいて、私もですね、ほんとこれから先、こういう会かなんかあれば、いっちょ色々させていただければ思います。今日の話は有用な時間で良かったと思います。どうもありがとうございました。

司会:ありがとうございます。他に何か。

スタッフ:先程ご質問ありましたので、私の方から答えさせていただきます。私、軍艦防波堤を語る会に関わっております松尾です。
軍艦防波堤を今後どのように存続させていくかというご質問がありましたので、簡単にお答えいたします。まず、あの場所とあの物は北九州市の所有物でありまして、北九州市や港湾局が中心になって補修などをしております。とはいえ、毎年するほど予算がありませんで、しかし何度かの大改修が行われてきました。今後も行われていくものと期待していますし、若松区の市議会議員の方もそれを要請しており、既に若松区役所の方に声が届いているそうですので、
まあ、こっからなんですけど、では皆様の方からも、軍艦防波堤どうなっていますかという声を、ツイッターとか、フェイスブックから上げていただいて、市民の声、たくさん上がっとるんだよということを市に訴えかけていただくと、市の方も動こうかという気になるんです。まあ、物好きが一人や二人どうだこうだと言っとったって大して資金がないんですけど、市民の皆様、そして県外の皆様から声がどんどん寄せていただくと、市もやはり予算割くしかないかなという気持ちになると思います。どうかよろしくお願いいたします。以上です。

司会:ありがとうございます。他に何か

発言F:ちょっと気になったので、今日のこの会、どういう運営をされているのでしょうか。存続のための寄付金とか。いや、お金を払ってないなと思って。本来なら買わせていただいたんですけど、存続するためにお金を取っていたただいてもいいかなと思ったのと、あと、今日とてもすごいなと思ったのが、この若い学生さん達が関わってらっしゃるのも、次につながって行ってるようで素晴らしいなと思いました。それと、もう一つわがままを言わせていただくと、やっぱりその関わった方、当時の方がもし、ご高齢の方ばっかりなんでしようけど、お体とかね、そういう方の話も直で聞きたいなと思いました。昔はねされてたんでしょうけど。提案です。

司会:ありがとうございます。今のご質問で私の方からお答えさせていだたきます。もともとこの会はですね、かなり前から松尾の方が主催として開催されておりまして、年々会を重ねる毎に、少しずつ展示品なども増やしていって、今のこの規模になっております。
今、コロナの影響で、去年も元々この旧古河鉱業ビルさんの方で開催する予定だったんですけども、コロナで中止になってしまい、オンラインで、ユーチューブで動画配信するということになってまして、コロナっていう状況になってくると、どうしても当時の乗組員のご家族の方、当然この軍艦防波堤を語る会、もともと参加していただいて貴重なご意見、当時の証言などもいただいていたんですけども、やはり高齢の方が多いというのもあり、この情勢を踏まえまして、今回はそういった関係の方が来られない状況となっております。
有料化、お金取ってもいいのではないかという意見ですが、これは最近話題に上がっております。もともとこの会、参加無料で行なっていたので、今後入場料取ったとして、その入場料寄付していくっていうのも考えております。ありがとうございます。ご質問ありがとうございました。他にご意見は…

発言F:意見ではないですけど、よろしいですか。おととしの軍艦防波堤に参加させていただいた者なんですけど、自分自身、北九州市に、涼月という駆逐艦として軍艦防波堤に(聞き取れず)去年、(聞き取れず)今年来ている、(聞き取れず)
ちょっと、今、言葉が出てこなくて失礼します。北九州市、(聞き取れず)いつも素晴らしい会をありがとうございます。(聞き取れず)まとまらなくて済みません。
感想というよりは、あの、(聞き取れず)また今後も開催続けていけたらありがたいです。以上です。

司会:ありがとうございます。

スタッフ:いいですか。先程のご質問にもお答えしようと思いまして。今の方も、これからも続けてもらえたらいいという声をいただきましてありがとうございます。そのために主催の者から必要と思っているのが、一番何よりも若い力なんですね。
私、この会の前身であります凉月会という戦友会にもほんのちょっと顔出したんですけども、もう顔出したかどうかという位で、もう(当事者が)次々と旅立たれて(亡くなられて)いかれまして、ほんとに若い方に受け継いでいかなければどうなるかという運命を、まざまざと見せつけられてまいりました。
それで私、ドシドシと若い方にお願いしておる次第です。若い方がどんどん受け継いでいただけることが、一番の私たちの(聞き取れず)です。よろしくお願いします。以上です。

司会:ありがとうございます。

発言G:南区から来ました。今日私初めてこの語る会に参加させていただきまして、どうもありがとうございます。私がこの会の存在を知ったのは、中嶋さんがfacebookであげられてたのが、去年でしたか、おととしでしたか、それをちょっと拝見しまして非常に感動したというところがこの会の存在を知るきっかけでした。当然その中嶋さんのfacebookシェアすると同時に、翌日でしたかね今の軍艦防波堤の所に行って後日私なりにfacebookで投稿させていただきました。私も話がまとまってないんですけど、私の思いでは日本のこの平和がですね、この戦争で亡くなられた方、犠牲になられた方達の上にあって、今こういう平和があるのかなという思いで強く思っております。
この冬月と涼月の話を聞くと、私、個人的なことですけど、双子の孫がいまして、この冬月と涼月は、少しうちの双子に被ってくるんですね。涼月はどこかということで盛んにシグナルを送るような場面も朗読で見ましてですね、何となくまあ私ごとですけどそういう所からですね、更に感動するような感銘深いようなことを受けるような所が、それで先程色々と例えばこういうところの存在をfacebook等SNSで拡散したらどうかということもありましたし、私なりにもそういう動きをやっていこうと思いますと同時に、ずっとこの旧古河鉱業さんのこの場所でなさっておるっていうのも十分理解した上でございますけど、先程こういう(聞き取れず)ざるを得なかったという方がいらっしゃったという中で、場合によっては会場、もう少し広い所でされて、多くの参加者がいけるような場面も作っていただけるとありがたいなと思っております。今日はどうもありがとうございました。

司会:ありがとうございました。他にご意見ご質問等のある方はいらっしゃいますでしょうか。それでは、補足をしようと思います。
今日もし、これから軍艦防波堤に行こうと思ってらっしゃる方へ、ちょっと注意事項なんですけど、行った方はわかってられると思うんですが、柵などがありません軍艦防波堤には。波が高いときには柳の船体にかかるくらいになりますので、十分気を付けて見学の方されて下さい。また、現在柳の姿、形自体は残ってますが、何回か台風で損傷してそれを修理して現在の形になっていますのでかなり脆い状態です。ですので見学に行った際、なるべく柳の錆びている部分など、そういう脆い部分、あんまり触らないように、崩さないように注意して見学お願いいたします。

スタッフ:他にご意見なければ、私の方から、思い出話なんですけど、現地に行くとき注意していただきたいということを深く知っていただきたいと思いまして、
第一回の語る会を11年前に開催しました折に、ある人達が張り切ってですね、お酒、樽酒を持ってきてですね、それで机を出してですね、澤さん、覚えてますか?(笑い)机に樽酒を、柳の横に机を広げて樽酒を置いたわけなんです。その時、突風がビュウーって吹いてきましてですね、それで机ごと吹っ飛ばされました。(笑い)それで樽酒のバシャってひっくり返ってですね、柳の上にバシャーンとなって、(笑い)はあー 船乗りさん達がよっぽど飲みたかったんやろなあっていう声も上がったのですけど、ま、そのくらいに突然の突風が吹いてくる場合があるわけなんです、あそこ。風力発電所があるくらいに強い風吹きますので、油断して海に近づいておりますと、船乗りさん達がビュウっと風を吹かした場合ですね、大変なことになって、落ちたら上がってこれない構造となっておりますので、どうかご注意なさって下さい。一人でも事故が起こった場合、私達はもうこの活動をすることができなくなる事も考えられます。どうかお気をつけ下さい。以上です。

司会:それでは、質疑応答、他にないようであれば、次の方に移りたいと思います。
(澤さんの退場)(拍手)(澤さんのユーチューブチャンネル、都庁OBの紹介)
澤さん、本日はわざわざお越しいただきありがとうございました。(拍手)

さて、そろそろ時間になりました。(プログラムは設計図の紹介へ移る。書き起こし終了)
 

小倉の街さんぽ

 投稿者:抹茶  投稿日:2021年 5月 1日(土)15時02分25秒
  美しく風になびき落ちる水、元気な鯉のぼり、若々しい緑、青い空
小倉の街は色々と面白い
 

コンクリート船についてのメモ

 投稿者:抹茶  投稿日:2020年10月 1日(木)16時17分46秒
  若松や日本各地の軍艦防波堤は、多くが鋼鉄製だったので、錆びて朽ちてしまいました。
(内部には岩やガラクタ、その隙間にコンクリートも少しは詰められた。そもそもコンクリートなど資材がなかったので艦船が代用された。後に外側もコンクリートで補強された。今はコンクリートで埋設され、見えなくなった鋼鉄艦がほとんど。柳は唯一視認可)

しかし二、三の艦は、例外的に大変珍しいコンクリート製艦艇だったため、潮風に朽ちず、今も現役で防波堤として使われている所があります。
ただしこれは、今回配信した若松とは全く別で、広島県のです。
http://suzutsukimamore.web.fc2.com/takechi/takechi.html

コンクリート船は、世界的にもかなり珍しいようです。よほど鉄材に困窮でもしないと、まあ作らないでしょう。

船としては扱いづらかったようですが、建造時は想定外の防波堤としては、高性能の鉄材よりはるかに潮風に強く、また当時のコンクリートが堅牢な配合だったため、今もしっかりと構造を残しています。(宇佐の掩体壕も堅牢なのを思い出します)
今のコンクリートは、ここまで強くないようです。

 

お礼とコンクリート船について

 投稿者:抹茶  投稿日:2020年 9月27日(日)21時52分55秒
  ご視聴、ありがとうございます。アンケートもよろしくお願いします。
http://suzutsukimamore.web.fc2.com/

若松や日本各地の軍艦防波堤は、多くが鋼鉄製だったので、錆びて朽ちてしまいました。
(内部には岩やガラクタ、その隙間にコンクリートも少しは詰められた。そもそもコンクリートなど資材がなかったので艦船が代用された。後に外側もコンクリートで補強された。今はコンクリートで埋設され、見えなくなった鋼鉄艦がほとんど。柳は唯一視認可)

しかし二、三の艦は、例外的に大変珍しいコンクリート製艦艇だったため、潮風に朽ちず、今も現役で防波堤として使われている所があります。
ただしこれは、今回配信した若松とは全く別で、広島県のです。
http://suzutsukimamore.web.fc2.com/takechi/takechi.html

コンクリート船は、世界的にもかなり珍しいようです。よほど鉄材に困窮でもしないと、まあ作らないでしょう。

船としては扱いづらかったようですが、建造時は想定外の防波堤としては、高性能の鉄材よりはるかに潮風に強く、また当時のコンクリートが堅牢な配合だったため、今もしっかりと構造を残しています。(宇佐の掩体壕も堅牢なのを思い出します)
今のコンクリートは、ここまで強くないようです。
◆私らの配信が、戦争の正体を伝えるのに、少しでも役立つことを祈ります
 

(無題)

 投稿者:抹茶  投稿日:2020年 9月26日(土)22時35分53秒
  冬月についての調査依頼にこたえられない件など  

三艦が若松に来た経緯メモ5

 投稿者:抹茶  投稿日:2020年 9月25日(金)11時19分34秒
  冬月
昭和20年
天一号作戦の後、佐世保に回航。
その後、関門海峡と対馬海峡方面の哨戒。
門司港で終戦をむかえた数日後、触雷し大破。航行不能となる。
昭和21年 工作設備を搭載して工作艦となり、掃海部隊の支援任務に就く

この頃か、元凉月駆逐艦長 平山中佐、工作艦冬月の「船長」に就任
→冬月、凉月を並べる意思が働いたかもしれない
昭和21年10月15日、防波堤沈設のため払下げの通達が出される
昭和22年  工作艦任務終了後の冬月は佐世保へ回航され、同地で涼月と共に係留
昭和23年3月から5月にかけて、旧佐世保海軍工廠の佐世保船舶工業で上部構造物を撤去

凉月
昭和20年 佐世保帰投後、仮修理を受け相浦に係留
その後、再び佐世保に回航され、冬月とともに係留
昭和23年4月から5月にかけ、旧佐世保海軍工廠の佐世保船舶工業で上部構造物の撤去工事を実施


1917年から1919年まで、地中海の海上護衛に従事
昭和7年 第一次上海事変において揚子江水域の作戦に参加
昭和15年 除籍
その後、佐世保海兵団の練習船として使用。戦後解体

昭和23年6月
第2回国会 衆議院 本会議にて
「連合國から防波堤用としてもらい受けた軍艦の埋設作業に関する緊急質問」がなされる。(軍艦防波堤の建設が促進されたか)
昭和23年6月から7月にかけて
→三艦若松へ曳航 沈設

昭和25年頃には、軍艦防波堤は歩いて行けるようになるが、金属泥棒が目立ちはじめ立入禁止となる。
昭和36年 台風によって内部の土砂が大きく流失
昭和37年頃 撤去工事「凉月」「冬月」はコンクリートで完全に埋設。柳も成型
平成11年 台風で艦首部分が崩壊
平成12年 船体の周囲をコンクリートで補強、修復
その後も時々修復がなされる。

軍艦防波堤は、戦後沈設当初は若松の観光名所となる
元乗組員 宮原明さん、観光で偶然若松へ。凉月との再会
平成22年 宮原明さん、余命零ヶ月で語る会へ参加 太田五郎さんと共に。
その後テレビ出演も果たし、四か月後、八月に他界


 

三艦が若松に来た経緯メモ3

 投稿者:抹茶  投稿日:2020年 9月25日(金)09時51分8秒
  経緯が、大筋できました。
_______________________

冬月
昭和20年
天一号作戦の後、佐世保に回航。
その後、関門海峡と対馬海峡方面の哨戒。
門司港で終戦をむかえた数日後、触雷し大破。航行不能となる。
昭和21年 工作設備を搭載して工作艦となり、掃海部隊の支援任務に就く

この頃か、元凉月駆逐艦長 平山中佐、工作艦冬月の「船長」に就任
→冬月、凉月を並べる意思が働いたかもしれない
昭和21年10月15日、防波堤沈設のため払下げの通達が出される
昭和22年  工作艦任務終了後の冬月は佐世保へ回航され、同地で涼月と共に係留
昭和23年3月から5月にかけて、旧佐世保海軍工廠の佐世保船舶工業で上部構造物を撤去

凉月
昭和20年 佐世保帰投後、仮修理を受け相浦に係留
その後、再び佐世保に回航され、冬月とともに係留
昭和23年4月から5月にかけ、旧佐世保海軍工廠の佐世保船舶工業で上部構造物の撤去工事を実施


1917年から1919年まで、地中海の海上護衛に従事
昭和7年 第一次上海事変において揚子江水域の作戦に参加
昭和15年 除籍
その後、佐世保海兵団の練習船として使用。戦後解体

昭和23年6月
第2回国会 衆議院 本会議にて
「連合國から防波堤用としてもらい受けた軍艦の埋設作業に関する緊急質問」がなされる。(軍艦防波堤の建設が促進されたか)
昭和23年6月から7月にかけて
→三艦若松へ曳航 沈設

昭和25年頃には、軍艦防波堤は歩いて行けるようになるが、金属泥棒が目立ちはじめ立入禁止となる。
昭和36年 台風によって内部の土砂が大きく流失
昭和37年頃 撤去工事「凉月」「冬月」はコンクリートで完全に埋設。柳も成型
平成11年 台風で艦首部分が崩壊
平成12年 船体の周囲をコンクリートで補強、修復
その後も時々修復がなされる。

軍艦防波堤は、戦後沈設当初は若松の名物となる
戦後すぐ、元乗組員 宮原明さん、観光で偶然若松へ。凉月との再会
数十年後
平成22年 宮原明さん、余命零ヶ月で語る会へ参加 元乗組員、太田五郎さんと共に。
その後テレビ出演も果たし、四か月後、八月に他界


 

三艦が若松に来た経緯メモ2

 投稿者:抹茶  投稿日:2020年 9月24日(木)15時01分17秒
編集済
  まだ書き直し中のメモです。


冬月
昭和20年
天一号作戦の後、佐世保に回航。
その後、関門海峡と対馬海峡方面の哨戒。
門司港で終戦をむかえた数日後、触雷し大破。航行不能となる。
昭和21年 工作設備を搭載して工作艦となり、掃海部隊の支援任務に就く

この頃か、元凉月駆逐艦長 平山中佐、冬月の「船長」に就任
→冬月、凉月を並べる意思が当然働いただろうと思われる
昭和21年10月15日、防波堤沈設のため払下げの通達が出される
昭和22年  工作艦任務終了後の冬月は佐世保へ回航され、同地で涼月と共に係留
昭和23年3月から5月にかけて、旧佐世保海軍工廠の佐世保船舶工業で上部構造物を撤去
昭和23年6月
第2回国会 衆議院 本会議にて
「連合國から防波堤用としてもらい受けた軍艦の埋設作業に関する緊急質問」がなされる。(軍艦防波堤の建設が促進されたか)



凉月
昭和20年 佐世保帰投後、仮修理を受け相浦に係留
その後、再び佐世保に回航され、冬月とともに係留
昭和23年4月から5月にかけ、旧佐世保海軍工廠の佐世保船舶工業で上部構造物の撤去工事を実施



1917年から1919年まで、地中海の海上護衛に従事
昭和7年 第一次上海事変において揚子江水域の作戦に参加
昭和15年 除籍
その後、佐世保海兵団の練習船として使用。戦後解体

昭和23年6月から7月にかけて
→若松へ曳航 三艦の沈設

昭和25年頃には歩いて行けるようになったが、金属泥棒が目立ちはじめ立入禁止となる。

昭和36年 台風によって内部の土砂が大きく流失
昭和37年頃 撤去工事「涼月」「冬月」はコンクリートで完全に埋設。柳も成型
平成11年 艦首部分が崩壊
平成12年 船体の周囲をコンクリートで補強、修復
その後も時々修復がなされた。





昭和23年くらい?
澤氏の祖父が冬月の「船長」さんになる
冬月の?艦内神社、発注。行方?門司の民家へ
三艦が並べて沈設される
若松の名物に。宮原明さん、観光で偶然若松へ。凉月との再会
暴風雨、鉄泥棒
クレーン船が撤去
コンクリート被覆昭和37年頃

宮原明さん、余命零ヶ月で語る会へ参加。その後テレビ出演もこなし、四か月後、八月に他界

これだけの文書を作るのは、口では一言ですがね、
そんな簡単なことではありません。
休憩時間にぽちっ
 

宝探し老人のつぶやき

 投稿者:抹茶  投稿日:2020年 9月23日(水)21時03分7秒
編集済
  「戦争を知らない子供たち」という歌が、1960年代に流行しました。
若過ぎるからと、戦争を知らないからと、戦争経験者が若者を拒絶した時代の歌です。
もちろん、戦争を知らない若者に親切丁寧に語るほど、戦争は生やさしい体験ではなかったでしょう。
言語を絶する限界を超えた体験を、語る言葉もなく、聞いてもらえるあてもなく、仮に語っても、返ってくる反応は現実の地獄の実感とずれており、
なまじっか戦争を語る若者には、「戦争はそんなもんじゃねえ」と拒絶する断絶。それは実は今でも、関係者の中ですら続いています。
「お前の言う事は、体験者の真実を語っていない。戦争の残した苦悩と悔恨はそんなもんじゃない。俺はお前の空虚な言葉に傷ついた。もうお前とは語らない。」
私も最近、そんなことを言われました。

はっきり言います。少しでも戦争を知っている人が、いつまでもそんな拒絶を続けているから、だから語り継ぐ事ができないのです。
戦争のこととなると、恐いお年寄りやら、右や左のコワイ人にどやされる、叱られる、糾弾される。だから敷居が高い。叱られるなら近付くまい。
語り継ごうとする人はそう思っています。

たとえ自分がこう思ってほしい、こうあるべきだいう戦争観があったとしても、それはあなたの思うことでしかありません。
私はあなたと別の人生を生きています。

他者があなたの思いと違っていても、拒絶からは何も生まれません。何も共同作業は生まれません。
それでは未来はあなたと私と、隔てられたままに終わり、そこから戦争はまた生まれるのです。

人類は、その発生以来、自らの存続のために、常に他集団の生存を奪い、絶えることなく戦争を続け、現代も戦争は世界のあちこちで続いています。
日本でほんの75年間、奇跡的に戦争がなかったとしても、それはほんの幸運による一時的な事象で、それもいまや崩れつつあります。
常に火種は人の間にあり、いつでも人類は「戦争をやりたい」一面を確実にDNAの中に持つ生き物です。
人は戦争をいつでもやりかねない種族なのです。起こしてはいけないと、口先で言うだけでは本能を制御するのに足りません。
あなたの隣にいる人と、たとえ意見は違っても、ともに未来の平和を作り出す作業を、できるかできないかが分かれ道です。
ほんの小さなこと、この軍艦防波堤について語り合う事すらが、未来の「何か」を作ると、信じたいと思うのです。

右や左の思想に惑わされず、自分の頭で戦争の事実を学ぶのに都合の良い方法として、私は実物から、物から学ぶことをお勧めできます。
人の言う事、書いてある事を鵜呑みにすることから始めるのを一時停止して、語らない何物かの「物」語りに静かに耳を傾ける方法です。
自分の耳と、目と、手触りと、匂いと、体の感覚と、己を総動員して自分の頭で考え、自らの感覚が望むチャンネルを選び取り、自分からアクセスする。
そこで出会う人と、自ら望んで意見を交流する。
自分のために、己の知的好奇心を満たすために情報を選び、つかみ取る。

そんなワクワクする智慧の冒険を、例えば軍艦防波堤に触る事から、始めましょう。
未来は一つ一つ、私達の手で刻むのです。
 

三艦が若松に来た経緯メモ

 投稿者:抹茶  投稿日:2020年 9月23日(水)16時51分44秒
編集済
  ただの備忘録。殴り書きです。

昭和二十年 終戦
昭和二十二年?
国会にて、戦時の軍用艦が防波堤として活用できることが認められる
冬月 博多にて復員に従事?門司にて触雷。それからどうなったかな、博多で作業船?
凉月 佐世保、相浦に係留。一機撃墜。農、漁業
柳 太平洋戦争前に除籍。佐世保にて練習艦として係留

昭和二十三年?
佐世保に三艦が集められ、兵器部分を取り除かれる。→若松へ曳航 いつ頃
昭和23年くらい?
澤氏の祖父が冬月の「船長」さんになる(職歴書類に記載あり)→冬月、凉月を並べようという意思が当然働いただろうと思われる
冬月の?艦内神社、発注。行方?門司の民家へ
三艦が並べて沈設される
若松の名物に。宮原明さん、観光で偶然若松へ。凉月との再会
暴風雨、鉄泥棒
クレーン船が撤去
コンクリート被覆昭和37年頃

宮原明さん、余命零ヶ月で語る会へ参加。その後テレビ出演もこなし、四か月後、八月に他界
 

プレミアム公開の覚書き

 投稿者:抹茶  投稿日:2020年 9月23日(水)15時33分8秒
  YouTubeのプレミアム再生が、12:45の次が13:15、次が13:45といった具合に、
半端な時間しか選べなくなった。従来の、分刻みの予約ができない。13:00とかも選べない。コロナの影響らしい。
次の記事に裏技が書いてあった。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12231523047?__ysp=44OX44Os44Of44Ki5YWs6ZaL44CA5pyA6L%2BR44CBMO%2B8mjE15Y%2BI44GvMO%2B8mjQ144Gu44KI44GG44Gr5Y2K56uv44Gq5pmC6ZaT44GX44GL6YG444G544Gq44GP

プレミア公開の設定はアプリではできないので、プレミア公開したい場合は、
(1)アプリで公開時間を設定
(2)PC版YouTube Studioでプレミア公開のチェックを入れる
という手順で出来ると思います。
とこのと。

恐る恐る試したら、スレスレどうにかなった。
他のチャンネルでダミーにプレミアム再生を予約して、せっかく沢山の人にチャンネル登録してもらったリンクが駄目にならないか、何度も別チャンネルで試しながら、何とかうまく行ったのを確認し、やっと本配信の予約時間を変更できた。
ヒヤヒヤしましたのでここに足跡。

確か、
一度パソコンでプレミアム配信にしたチャンネルを

・パソコンで、プレミア公開を一度外す。

・同じチャンネルにログインしたスマホのアプリで公開時間を設定(YSアプリ必要)

・今度は、PC版YouTube Studioでプレミア公開のチェックを入れる

でうまく行ったと思う。(抜かしたかもしれない)
途中で間違えると、二度とプレミア公開にできなかったりしたので、他チャンネルで練習して行うことを推奨。
 

備忘録

 投稿者:抹茶  投稿日:2020年 9月23日(水)12時09分28秒
編集済
  書き直すための備忘録です。

想定問答集9-21  投稿者:抹茶  投稿日:2020年 9月21日(月)12時58分16秒 編集済
軍艦防波堤についての、問答集です。ご覧下さい。(9月21日の語る会で使おうかと準備していました。)
----------------------------------------
Q0,艦艇が防波堤となって経緯を教えて下さい。
軍艦防波堤が作られた経緯が、国会議事録に載っていますのでご覧下さい。
020 菊池義郎 氏の発言に詳細があります。
https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=100205254X07119480626


Q1,「凉月」と「涼月」、文字がニスイとサンズイで違います。どちらが本当なのですか?
どちらも正解だという事になっています。海軍の正式な書類では、サンズイの涼月が使われていたようです。
若松の高塔山を舞台に、戦後しばらくしてから始まり、三十年以上にわたって行われてきた戦友会である「凉月会」では、案内状の差出人のゴム印にも、ニスイの凉月がずっと使われ続けてきました。使われた期間としては一番長いと思います。この戦友会「凉月会」は戦後の長い期間この名前を使い続け、一方多くの人はこの名を忘れかけていました。
戦後何冊かの著書が出版され、凉月に触れた個所ではニスイの凉月に統一して使われました。
戦友会の活動は規模が徐々に縮小しましたが、最近(この二十年ほどで)凉月の名前が再び語られるようになりました。
ただ「涼月」がパソコンで簡単に変換されることや、海軍の正式な帳簿にも載っていることから、現在はサンズイの涼月が多く使われている現状があります。
(スズシイと入力して変換していけば、凉は割と出てくるのですが。)
何十年もニスイの凉月を使い続けてきた人々にとっては、突然の事態をどう思われたことでしょうか。
今も大切にこの文字を使い続ける方々はいます。軍艦防波堤連絡会でもニスイの凉月を使っています。一部関係者の著書としてwikiで触れられる、ニスイの凉月を使っている著書は例えば以下のようなものです。
ただこの違い、割とどちらでも良いものだったらしく、当時の軍関係者はどちらの文字も使っており、点の一つにこだわっていなかったように思われます。
パソコン、ワープロのない戦時中は手書き文字がほとんどで、活字は本当に限られた文書などでしか滅多に使われず、ニスイだのサンズイだの、点が一つあるかないかは、その時の気分と手のブレなどで許容の範囲内だったと思われます。どちらでも良かったのでしょう。
残っている手書き文字にも、点が一つあったりなかったり、表記が適当である事実が残っています。手書き文字の中には、点が二つだか三つだか、見ても区別が付かない文字すらあります。活字の少なかった時代に、手書き文字は許容範囲が広かったわけです。
凉月、涼月は今後も、どちらも正解だとするwikipediaの見解に沿っていくことと思われます。例えば、日本を二ホンと呼ぶのと、ニッポンと呼ぶのと、どちらも正解だとするのと似た事情かと思います。
参考
http://jikototasha.blog.fc2.com/blog-entry-17.html

Q1-2,一部関係者の著書では、ニスイの凉月の文字が使われていると言われます。どんな書籍ですか
「海ゆかば…駆逐艦隊悲劇の記録」倉橋 友二郎(駆逐艦凉月元砲術長)著 徳間書店(1967年)
「軍艦防波堤へ―駆逐艦凉月と僕の昭和二〇年四月」澤 章(元凉月駆逐艦長・平山敏夫中佐の孫)栄光出版社(2011年)
「若松軍艦防波堤物語―戦いの記憶を語り継ぐ」福岡県人権研究所(2013年)など
{若松の軍艦防波堤の現地看板にも「凉月」の文字あり}

Q2,どうして軍艦防波堤の涼月、冬月は、コンクリートに埋められたのですか?
若松の港を守った軍艦防波堤に使われた船体のうち、特に「冬月」「凉月」の船体は、一部の人によってその鉄材が剥ぎ取られ、時にはガスバーナーを持ち込んで切り取る者もいたようで、ちょっとした現金収入になったようです。
昭和37年頃には内部にまで波が入り込む状態となり果て、そこにまた激しい台風などで暴風雨が吹き込み、崩壊の危機にあったようです。
そのため、崩壊防止と安全上の措置としてクレーン船作業によって撤去され、コンクリートを被せられました。工事に入る前には、10分近くも続く黙祷と、極めて丁重なお払いがなされたそうです。

Q3,鉄泥棒というのは、どんなことですか?鉄泥棒を、どうして取り締まらなかったのですか?鉄泥棒はとても悪い罰当たりな行為ではありませんか?
鉄泥棒、実は何の悪気もなく、釣りに行って魚を釣る程度の気分で、「ちょっと鉄取ってくるわ」と、気軽に自転車で出かけていたという話も聞きます。
当時の軍艦防波堤付近は、別に立ち入り禁止の立て札や看板があるわけでもなく、誰でも自由に入れる所でした。できた当時は狭い海に隔てられて、歩いて行ける場所でもなく、国や自治体による施設としての管理もほとんどなく、ちょっと小舟で渡れば誰でも勝手に鉄材を持っていけるような場所だったようです。
何も警告もないわけですから、そこから何を拾って行くにしろ、彼らに悪気などなく、砂浜で貝殻を拾った、釣りで魚を釣った程度の気分でしかなかったでしょう。
ましてや、かつては栄光ある帝国海軍の艦艇であったという話は、戦争で負けたのならもう自分たち国民の物だという意識になり、自由に取って構わないという気分が漂っていたとしても、誰も咎めるものでもなかったでしょう。
むしろ、困窮していた戦後の市民に対して、その身を削りわずかの小遣いになってくれる艦艇の亡骸は、現代風に言えばまるで自分の顔を飢えた人に分け与える「アンパンマン」のような存在だったのかもしれません。
高張力鋼という高価で強靭な鉄材を多用した第二次大戦時の最新鋭艦、冬月、凉月の鉄材は、利用価値が高く、廃材屋に高値で売れるので剥ぎ取られましたが、「柳」は大正時代の駆逐艦であり、その鉄材はあまり高く売れなかったのか、盗難被害は少なく、37年の撤去工事後も船体の形を残すものだったようです。
当時は軍艦防波堤を厳重に管理していた記録は見当たりません。経済的に困窮した市民の立場で見るならば、単に打ち捨てられた鉄屑に等しいガラクタ。それを取ったからとて、「鉄泥棒」という悪名を若松市民に押し付けるのは、ちょっと名前が悪過ぎないかな?という気もしています。まあ、ガスバーナーで切り取ったのはどうかとも思いますが。

Q4,主催者の方は、どうして軍艦防波堤に関心を持ったのですか。何かの関係者ですか?
主催者は、親戚縁者ではなく、ここと直接の関係はありません。むしろ、戦争という話題には拒絶感を持っていた世代です。
ただ、1999年、たまたま目にした地名の本に「軍艦防波堤」の写真が載っていて、こんなものが自分の故郷若松にある事を初めて知りました。(その頃私は三十代でした。)興味が湧き訪ねてみて、奇妙な姿に驚きホームページに写真を載せました。
その写真が色々な方の目に留まり現地を案内するうちに、ここを大切に思って熱意を持って訪れる方々との間に交流が生まれました。
当時は今ほどこの場所に注目がなく、現地に近い私がここを知らぬ振りすれば、ここを話題にする人は案内されない事を予見していました。ネット検索しても、ヒットするのは二件程度でした。
2000年には現実に災害で現地は大崩壊し、放置すれば確実にここは撤去される運命にある事を知りました。しかし知り合った人々はここをとても大切に思っていました。この人々との絆から今も活動を続けています。

Q5,凉月は、この沖縄特攻だけではなく、何度も大破したと聞きます。どんな被害を受けたのですか。
沖縄海上特攻の前年
1944年、昭和19年1月16日、宮崎県東方100km地点で米軍から攻撃受け、船は同時に前後を破断。約250人が死亡。ギリギリで沈没を免れ、ダルマ状態になった艦中央部のみが辛うじて呉に曳航される。
「造船士官や工員たちはその姿を見て一様に絶句、「なんで沈まなかったのか不思議」が一致した感想だったという」
引用下記より
https://wikiwiki.jp/kancolle/%E6%B6%BC%E6%9C%88
同年10月16日
宮崎県都井岬沖でまたも雷撃を受け2発が命中。新造したばかりの艦首の舳先から一番砲塔のすぐ前までの部分がもぎ取られた。死者2名、他被災。
これらの事実は、菊水作戦の件ほどは語られませんが、元乗組員の太田五郎さんらは、これらの大破で亡くなられた方々が浮かばれないと、ずっと案じられて、いつも手を合わせておられました。

Q6,三隻はなぜ、若松に連れてこられたのか。いつ頃連れてこられて、いつ頃コンクリートに埋められたのか?
まだ書いていない。●●

Q7,若松区高塔山慰霊碑には「柳、昭和二十七年 津軽海峡において(中略)艦尾を大破 大湊港外に擱座」とあります。柳は第二次大戦時の松型のもので、青森の大湊で沈められたとの意味だが、この記述は正しいのか?
柳は「昭和の松型駆逐艦、二代目柳ではないのか、という誤解」が昔から存在します。高塔山の慰霊碑の記載もこれです。しかし失礼ながらこの記載は間違いです。
Wikiによると二代目、松型「柳」(第二次大戦時の艦)は全長100m。しかし若松の軍艦防波堤の柳は実測したところ全長86m。全く長さが足りません。かと言って艦尾が折れているわけでもなくきれいです。若松の柳は、第二次大戦時の松型柳とは全く違う長さの艦です。

また、松型、二代目柳は艦尾が大破したと記録があります。しかし若松の柳は、とがった艦首から丸い艦尾まで明瞭に姿が残っており艦尾は大破した跡は見えません。

(青森県大湊には、松型駆逐艦、二代目柳の慰霊碑が現存します。もし若松の慰霊碑記述が本当なら、艦尾が大破して「擱坐」(船が浅瀬にのりあげること)しているのを、わざわざ海から引き上げ、はるか青森から若松まで、大破して波に浮いていられない松型柳を曳航した?事になりますが、これはあまりに奇妙な長旅です。)
軍艦防波堤研究のパイオニア・戦捜録HP作者 望月創一氏の意見では
『二代目の「太平洋戦争に参加した」柳は、大湊で解体された。
(若松区の柳の)艦首形状は大正期以前の旧式艦特有のもの。若松区の柳は初代に間違いない。 』です。

高塔山慰霊碑の記載は、ネットのなかった時代、いくつかの著書の記載を転記したものでしょう。この誤解は非常に広く広まって今も残っています。
参考
https://6309.teacup.com/maccha/bbs/535
若松の軍艦防波堤 柳は、間違いなく大正時代、第一次世界大戦で活躍し、第二次大戦時には既に除籍され、佐世保で旧制中学等の練習船として使われていた「桃型駆逐艦、初代柳」で間違いありません。

Q7-2,練習船として佐世保で使われていた頃の柳のエピソードはありますか?
こちらをご覧ください。旧制中学の生徒が柳で体験したことが生き生きと描かれています。
http://suzutsukimamore.web.fc2.com/siryo/siryo-yanagi-1.html

Q8,高塔山の慰霊碑は分かりづらかった印象です。地図はありますか?
こちらにあります。
https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1qidSTvkInyYfokx9kih6v-H7QWw&ll=33.90436444456181%2C130.79969020000001&z=18


Q9,軍艦防波堤へ行くのに何度も迷いました。タクシー運転手でも知らなかった。地図はありますか?
地図はこちらにあります。会が「複雑交差点」と名付けた、大変分かりづらい交差点で多くの人が迷います。ここさえ通過すれば辿り着けます。(地図参照)地元若松でも、まだ知らない人がほとんどです。タクシー利用の際も、この地図を紙に印刷して持たれるのが無難です。
http://suzutsukimamore.web.fc2.com/9.gif

Q10,「軍艦防波堤へ」の一節に、凉月の形にコンクリートの岸壁が曲がって見える、とあります。実際に凉月の形が見えるのですか?
凉月の一部の痕跡だろうと思われる、コンクリート壁のごくわずかな湾曲の痕跡が岸壁に認められます。
こちら↓をご覧ください。
https://6309.teacup.com/maccha/bbs/562

Q11,涼月の船体が、現地に一部見えるという話がある。本当か?
柳の手前のコンクリートの地面に、ごく一部、鉄材の一部が小さく表面に現れていている部分が確かにあります。しかしこれは(実測したわけではないのですが)位置関係からして凉月本体というよりも、柳と凉月の間に置かれていた事が設計図に残されている、「方塊」と名付けられた小さな四角い構造物ではないかと思われます。この「方塊」がそもそも何に使われていた構造物であるかについては、誰に聞いても定かな所はわかりませんでした。
「方塊」の存在を示す、防波堤全体の設計図は存在しますが、版権上出せないので、大まかな見取り図を示します。
https://twitter.com/gunkanbouhatei/status/1127913764773187585/photo/1
https://twitter.com/gunkanbouhatei/status/1127913764773187585


Q12,百年前の、柳艦上で書かれた地中海日記は、どこで見られますか
活字文字に起こしたものはこちらです。普通は活字が読みやすいでしょう。
http://suzutsukimamore.web.fc2.com/siryo/kakiokosi.html
画像はこちらです。当時の肉筆の実物写真です。生身の温もりが残ります。ダウンロードしてご覧ください。日記筆者の家族の方から、提供いただきました。
http://suzutsukimamore.web.fc2.com/siryo/nikki.html

Q14,柳の設計図は、見ることができますか
こちらから閲覧できます。自由に使うことができます(著作権は放棄されません)。戦捜録HP作者 望月創一様に提供いただきました。
ミラー1
https://1drv.ms/f/s!AizdZ65Jwic4gaMg1VMb4rvZKrJDiA
ミラー2
https://www.amazon.co.jp/clouddrive/share/NEX8xabyoVlp8gSKYY2xh1Vyv711zaSUh1SYRE8srwU

Q15,軍艦防波堤は、なぜ若松にあるのですか?
北九州、中でも官営八幡製鉄所では、戦前から日本の鉄の多くを生産してきました。日本の産業の要でした。そこに出入りする船舶の安全を守ることは、焼け野原となった戦後日本の復興の礎として大変重要な事業でした。
比較的近かった佐世保港で整備された三隻が曳いてこられました。

Q16-1,軍艦防波堤は、他の所にもあるのですか?
日本各地に、軍用艦艇を流用したいわゆる「軍艦防波堤」が、かつて十カ所前後ありました。しかしほとんどが錆びて朽ち果ててしまい、鋼鉄製の船舶としてその艦形が視認できるのは、ほぼ若松の「柳」のみです。
ただ、鋼鉄製の艦艇による軍艦防波堤はほぼ見られなくなりましたが、コンクリートで造られた艦艇は,潮風に強く何隻かその形を留め、錆にやられないため未だに現役の防波堤として活躍しているところもあります。
参考
http://suzutsukimamore.web.fc2.com/siryo/siryo-seigo.html

Q16-2,軍艦防波堤ができて、若松の港にどんな影響がありましたか。
例えば、若戸渡船の乗り場は、防波堤ができる前は少しでも風が吹くと大波が響灘から打ち寄せて、乗り降りも危険だったようです。それが防波堤ができると、嘘のように波が無くなって乗り降りが安全になったそうです。

Q17,コンクリート船というのは、どんなものですか?
戦争末期、物資不足で鉄材が極端に不足した頃、鉄材の使用を極力減らし、代わりにコンクリートで造られた船です。現在は広島県安浦港に防波堤として設置されている「第一武智丸」「第二武智丸」は、軍事用燃料の輸送にあたったそうで、(柳のいる)若松の石炭も運ばれた話があります。
広島県音戸・坪井漁港の防波堤として現役で使われているコンクリート製の被曳航油槽船は、自走はできず、普段は海中に半分沈められ、動くときは他の船に曳航されていたようです。
防波堤ではありませんが、山口県笠戸島に残るコンクリート船の残骸も、燃料などを貯蔵して普段は海中に隠され、必要な時に浮かせて曳航されたようです。
ただ、戦争最末期という時期もあり、コンクリート船が使われる機会は少なかったとも伝えらます。大変堅牢なコンクリートで念入りに造られたため、現在でもしっかりとした構造を残すものがあります。
その他、瀬戸内海の小島には、コンクリート製のドラム缶が、所々に残っているらしく、鉄材不足をコンクリートで代替を試みた先人の苦労の跡がうかがわれます。

Q18,岩国港の軍艦防波堤とは?
戦後、日本各地に計画された軍艦防波堤の中には、計画だけはされたが実現に至らず、実際の形跡が認められない所が何カ所かあります。岩国港の巡洋艦「平戸」もその一つで、実際には存在しないと思われてきました。
しかし、まだ未確認情報ではあるのですが、下記のような仮説が考えられています。
終戦時、平戸は既に除籍処分(船という扱いが消滅)となっていたため、財務省の防波堤用埋設艦艇一覧表という帳簿上には存在しなかった。帳簿上存在しないため、恐らくは廃材か何かの扱いを受けていたのかもしれない。しかし平戸の船体(の残骸)はおそらく防波堤代わりに、岩国港沖合に沈設されたか擱座していたか、その写真らしきものがネット上に存在した(現在は削除されている。)。現在現地にはもちろん既に存在しないようだ。
岩国港は戦後長い間米軍の管理下にあり、一般人は立ち入れず、存在の確認すらしようがなかったのだが、写真とその背景の山並み比較から、岩国港にあったと確信されつつあり、確認作業が一部関係者の手で進められるかもしれない。いずれ軍艦防波堤の歴史を塗り替えられる可能性もある。
https://twitter.com/ntfiv/status/1135451426765692928

Q19,長崎の川棚にも、軍艦防波堤が存在したらしいという事ですが?
第二次大戦後に全国十カ所ほど作られた軍艦防波堤のシリーズとは違い、それ以前に古い艦艇を防波堤として流用したものらしいです。今はもう姿が見えませんが、地元の人々がその歴史を残そうとしているようです。
参考
https://twitter.com/gunkanbouhatei/status/1164878391192854528

https://twitter.com/gnoseminateipon/status/1096214267987034112

Q20,ほんの十年前まで、戦争を話題にすることはタブーでした、と配信の中で言われましたが、そんなにタブーだったのでしょうか。まじめに戦争や平和について教育する先生もいたようですが?
戦争を今のように、ゲームの話と絡めて身近に気軽に話題にできる世相ではなかったことを言っています。
確かに、真摯な教育者の皆さんなど、平和教育を丁寧にされている方々はおられましたが、
それすら、何一言いうにも慎重に言葉を選び、右や左の方々からのご批判を受けないように、ずいぶん気を使っていたものでした。
今のように、学校やマスコミとは別の、ゲームやネットの世界から戦争を知る若者が増え、
その中に散りばめられた膨大な歴史知識に接するようになったので、ようやく戦争の事実そのものに意識を向ける圧倒的な数の若者が増えてきたように思います。

それ以前は、右か左の政治主張のバイアスがどこかに入り込んだ、誰かに吹き込まれた知識で戦争を語っていたのではないかと思われてなりません。
自分の目と耳と手と足とで、戦争を調べ、真に自分の頭で考えた若者が十年前にどれほどいたでしょうか。今の数百万の数には到底及ばなかったでしょう。
ほんの十年前に、ガダルカナルやインパールを自分から調べようとする若者がどれほどいたでしょうか。
今のネット環境とゲーム、アニメの流行は、それを可能としています。
この自由な空気の中で己の知識欲の赴くままに調べ抜く若者達の空気と、十年前の雰囲気とを比較して、敢えてタブーだったと表現してみました。


Q21,戦争について話していたら、戦争はそんなもんではないと否定されました。そんな経験はありますか?

どこかの大学の先生が、ゲームの艦これで得た知識を答案に書いた若者を馬鹿にして、「こんな艦これの受け売りはする奴は「不可」にしてやったぞ」とご立派なマウント取っておられました。
せっかく興味を持ち、学び始めた若者がいるなら、どうしてその興味を育てていくことをしないで、自分の知識が唯一の正解だとひけらかし、若者の学習意欲を摘んでしまうのでしょう。
この先生が御立派な歴史知識を教授した今までの若者の中に、どれだけの人数が自発的に戦争事実に向き合い、自ら調べようとしたでしょう。
艦これはじめ、数百万の戦争ゲーム、アニメファンの数の足元にも及ばないはずです。もちろん、そのすべてが望ましい学び?をしているかどうかはわかりません。
しかしたとえ1%しか、望ましい学びをしないとしても、少なく見積もって数万人の若者は、自らの手で、今まで一般学生達から見向きもされなかった、戦闘時代の詳細な史実に、真摯に向き合っています。
今までの大人が、高尚な教壇から、大学の講壇から、同じことを為し得たでしょうか。
そんな時代は長くなかったはずです。
かつて学生運動が華やかな時代ですら、一つ一つの戦争事実をコツコツと学んだ学生がいたでしょうか。多くは右か左の政治思想の受け売りをしていたはずです。
翻って今、戦争体験、知識をひけらかし、他者を侮蔑する行為は、自分が優れていることを称賛されたいだけの虚しいマウント取りが目的であって、共に平和を創造する行動をその人は忘れています。
戦争の真の姿を知り、平和を地道に隣人と共に一つずつ探し求める、創る行為をしたいのなら、虚しいマウント取りではなく、若者の知識欲を伸ばし育てることをこそ大人は意識して行なうべきです。


Q21,柳以外に、戦時中の艦船で姿が見られるものがありますか?
防波堤ではありませんが、横須賀に記念艦「三笠」があります。これは、しっかりと保存されていて、見学もできるようです。 https://www.kinenkan-mikasa.or.jp/

Q22,軍艦防波堤三艦慰霊碑についての資料はありますか
若松海友会作成の資料を閲覧できます。手書き文字ですが、貴重資料ですので是非ご覧下さい。
http://maccha777.gozaru.jp/gun-siryo.html

Q23,軍艦防波堤についての、簡単な解説書はありますか
下記を印刷してご覧ください。A4版二枚です。
http://suzutsukimamore.web.fc2.com/gun-hayawakari.PDF

以下、少しずつ付け足していこうと思います。ご質問ご意見お待ちします。

軍艦防波堤連絡会 代表のつぶやき
「戦争を知らない子供たち」という歌が、1960年代に流行しました。
若過ぎるからと、戦争を知らないからと、戦争経験者が若者を拒絶した時代の歌です。
もちろん、戦争を知らない若者に親切丁寧に語るほど、戦争は生やさしい体験ではなかったでしょう。
言語を絶する限界を超えた体験を、語る言葉もなく、聞いてもらえるあてもなく、仮に語っても、返ってくる反応は現実の地獄の実感とずれており、
なまじっか戦争を語る若者には、「戦争はそんなもんじゃねえ」と拒絶する断絶。それは実は今でも、関係者の中ですら続いています。
「お前の言う事は、体験者の真実を語っていない。戦争の残した苦悩と悔恨はそんなもんじゃない。俺はお前の空虚な言葉に傷ついた。もうお前とは語らない。」
私もつい先日、関係者からそんなことを言われました。

はっきり言います。少しでも戦争を知っている人が、いつまでもそんな拒絶を続けているから、だから語り継ぐ事ができないのです。
たとえ自分がこうあってほしいという戦争観があったとしても、それはあなたの思うことでしかありません。
私はあなたと別の人生を生きています。
他者があなたの思いと違っていても、拒絶することでは何も共同作業は生まれません。それでは未来はあなたと私と、隔てられたままに終わり、そこから戦争は生まれるのです。

人類は、その発生以来、常に他の集団の生存を奪い合い、絶えることなく戦争を続けて、現代も戦争は世界のあちこちで続いています。
日本でほんの75年間、奇跡的に戦争がなかったとしても、それはほんの幸運による一時的な事象で、いまや崩れつつあります。
常に火種はあり、いつでも人類は「戦争をやりたい」一面を確実にDNAの中に持つ生き物です。
人は戦争をいつでもやりかねない生き物なのです。起こしてはいけないと、口先で言うだけでは本能を制御するのに足りません。
あなたの隣にいる人と、たとえ意見は違っても、ともに未来の平和を作り出す作業を、できるかできないかが分かれ道です。
ほんの小さなこと、この軍艦防波堤について語り合う事すらが、未来の「何か」を作ると、信じたいと思うのです。

右や左の思想に惑わされず、自分の頭で戦争の事実を学ぶのに都合の良い方法として、私は実物から学ぶことをお勧めできます。
人の言う事、書いてある事から始めるのを一時停止して、語らない何物かの「物」語りに静かに耳を傾ける方法です。
自分の耳と、目と、手触りと、匂いと、体の感覚と、全てを総動員して自分の頭で考えて、自らの感覚が望むチャンネルを選び取り、自分からアクセスする。
そこで出会う人と、初めて意見を交流する。自分のために、自分の知的好奇心を道すために情報をつかみ取る。

そんなワクワクする智慧の冒険を、例えば軍艦防波堤に触る事から、始めてみましょう。
 

凉月らしき岸壁のふくらみ等

 投稿者:抹茶  投稿日:2020年 9月22日(火)10時45分24秒
編集済
  (上写真)凉月らしき?「膨らみ」の写真。
そんな気分で見てみると、何となく膨らんでいます。

(中写真)下から真ん中付近まで直線の岸壁が、
途中から上は、海側(右側)に僅かに膨らんでいます。
位置的に、凉月の痕跡かと考えています。

(下写真)海とは反対側の、壁の屈曲。外側に曲がっており、「何か」が内側にあったようにも思われます。
-----------------------------------------
【注意! 中写真の撮影は真似しないで下さい】
人に腰ベルトをしっかり持たせ、確実に安全確保して行ないました。
風穏やかな日も、現地は
急に極めて強い突風が吹きます
万一落ちたら上がれません
垂直の岸壁、しかも鋭い牡蠣殻だらけ。つかまる所は無いのです!
一人でも事故を起こすと、このような案内はできなくなります!
安全第一で行動願います。


(※写真をクリックすると拡大します)

 

備忘録です

 投稿者:抹茶  投稿日:2020年 9月22日(火)09時54分31秒
編集済
  https://twitter.com/gunkanbouhatei/status/1116892320954232833

https://twitter.com/gunkanbouhatei/status/1124308998524551169

https://twitter.com/gunkanbouhatei/status/1124308998524551169/photo/1

https://twitter.com/gunkanbouhatei/status/1127913764773187585

ふくらみ
https://twitter.com/gunkanbouhatei/status/1124311813229666304


https://twitter.com/gunkanbouhatei/status/1124973423245946880

https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSfgsL2Hp6baAlvoLZEwAnf0O654nwAuNffcWi1vYyBIK9JrEQ/viewanalytics


 

雑感メモ

 投稿者:抹茶  投稿日:2020年 9月22日(火)07時45分36秒
  個人の備忘録です。

戦争の悲惨さという枕詞、掛詞について


戦争ということの形容は、マスコミは必ず悲惨さという言葉を用いる。絶対確実だ。それ以外の言葉は用いない。
この事について私の思うところを述べたい。


あの大学先生、艦これの歴史観を受け売りしているからと言って、単位を不可にしてやったと自慢していた。
自分がいかによく知っているかをひけらかしたいだけのこと。
平和を目的とするなら、興味を持ち始めた若者の知的好奇心を守り育てていかなくて何をするか馬鹿者メ。

マスコミのように悲惨さばかりを使っていると、自分の頭で言葉を紡ぐことをあきらめてしまう。
なぜ、
右や左の方々からゴチャゴチャ言われるから。怒られるから。戦争はそんなものじゃないという言い方が、どれだけ若者を委縮させてきたかを、戦争を知らない子供たちという歌に知れ。

東日本大震災、去年の台風災害、その被害に、悲惨さという言葉を付けてみたまえ。
東日本大震災の悲惨さ。
原発被害の悲惨さ
庫豪雨災害の悲惨さ

どうだろうか。そんなものじゃない、そんな薄っぺらな言葉じゃ言い尽くせるものではない。
少しでも現場を知る人なら、この言葉がいかに言い尽くせていないかを感じないだろうか。
その、微かなわだかまり、微妙な違和感とでも言った感覚を、自分の言葉を話そうとしてみたくなってほしい。

判で押したような、悲惨さの押しつけには判断停止を勧める。
本当にこんな言葉で、自分の感じた心の揺れを言い表しているのだろうか。もっとふさわしい言葉はないのか。それを探す旅こそが平和への道だと思う。

自分の知識をひけらかしてマウント取りたい奴は勝手にやっていればよい。

そうではなくて、例えば逆になぜ人間は戦争に惹かれるかを考えたことはあるだろうか。

戦争で相手をやっつける事への爽快感、スッキリ感、ザマあ見ろ感覚、目には目を感覚。
そんな所にも言葉のメスを向けてみた人はいるか。
そこが明らかにされることで、初めて人が何故戦争に向かうかを詳らかにできる筈。

戦争のむごたらしさ、やりきれなさ、むなしさ、苛立たしさ、腹立たしさ、無力感、でも、やっつけてやりたい感、大事な人を殺されたら、同じことをし返したい感、被害者救済、そういった言葉は戦争に対して封印されてこなかっただろうか。
それらが私の言う「タブー」である。
 

宮原明さんの語り残した事

 投稿者:抹茶  投稿日:2020年 9月21日(月)13時13分21秒
編集済
  凉月元乗組員、宮原明さんの息子さんが、お父様がよく語られていたこととして、このようなことを伝えてくださいました。
ここに備忘録として書き残します。
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横須賀にあった工機学校に機関の事を知るために行っていた。工機学校--青山学院大学が終戦後大学校舎になり、使っただろう。一年くらいでやめ、今は米軍の駐屯地らしい。
半年学校へ 卒業アルバムがあった(今はない)お墓が横にあった。(S,17没)アルバムにその人の名前が載っていた。別の船に乗ったらしい。
卒業アルバムはあればわかるので(墓を見た)
それに行くのにテストがあった。ガリ版で余分に一枚テスト問題を刷ってもらい、前の晩に見せてもらった。翌日、それがテスト問題だったと気付いた。それで通った。入学してからが大変だった。

兵役で給料が出ていた。毎月二十円だったようだ。
船内は免税でビールやタバコが安かった。
何円か位で生活できた。残りは故郷に仕送りした。

配置された部署では、水を余分にもらうことができた。
水が艦内では大変貴重だったが、水を作る部署にいた。
金曜日がカレーの日だった。曜日の感覚がなくなるのでカレーが出ていた。




2019年10月17日
鉢巻きは、公共の機関でも使って良いと確約を得た。
 

軍艦防波堤 Q & A

 投稿者:抹茶  投稿日:2020年 9月21日(月)12時58分16秒
編集済
  今までに受けた軍艦防波堤についての質問に答えました。ご覧下さい。
----------------------------------------
Q1,艦艇が防波堤となって経緯を教えて下さい。
軍艦防波堤が作られた経緯が、国会議事録に載っていますのでご覧下さい。
 020 菊池義郎 氏の発言に詳細があります。
https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=100205254X07119480626
他、詳細作成中です。

三隻はなぜ、若松に連れてこられたのか。いつ頃連れてこられて、いつ頃コンクリートに埋められたのか?
まだ書いていないです。

Q2,「凉月」と「涼月」、文字がニスイとサンズイで違います。どちらが本当なのですか?
どちらも正解だという事になっています。海軍の正式な書類では、サンズイの涼月が使われていたようです。
若松の高塔山を舞台に、戦後しばらくしてから始まり、三十年以上にわたって行われてきた戦友会である「凉月会」では、案内状の差出人のゴム印にも、ニスイの凉月がずっと使われ続けてきました。使われた期間としては一番長いと思います。この戦友会「凉月会」は戦後の長い期間この名前を使い続け、一方多くの人はこの名を忘れかけていました。
戦後何冊かの著書が出版され、凉月に触れた個所ではニスイの凉月に統一して使われました。
戦友会の活動は規模が徐々に縮小しましたが、最近(この二十年ほどで)凉月の名前が再び語られるようになりました。
ただ「涼月」がパソコンで簡単に変換されることや、海軍の正式な帳簿にも載っていることから、現在はサンズイの涼月が多く使われている現状があります。
(スズシイと入力して変換していけば、凉は割と出てくるのですが。)
何十年もニスイの凉月を使い続けてきた人々にとっては、突然の事態をどう思われたことでしょうか。
今も大切にこの文字を使い続ける方々はいます。軍艦防波堤連絡会でもニスイの凉月を使っています。一部関係者の著書としてwikiで触れられる、ニスイの凉月を使っている著書は例えば以下のようなものです。
ただこの違い、割とどちらでも良いものだったらしく、当時の軍関係者はどちらの文字も使っており、点の一つにこだわっていなかったように思われます。
パソコン、ワープロのない戦時中は手書き文字がほとんどで、活字は本当に限られた文書などでしか滅多に使われず、ニスイだのサンズイだの、点が一つあるかないかは、その時の気分と手のブレなどで許容の範囲内だったと思われます。どちらでも良かったのでしょう。
残っている手書き文字にも、点が一つあったりなかったり、表記が適当である事実が残っています。手書き文字の中には、点が二つだか三つだか、見ても区別が付かない文字すらあります。活字の少なかった時代に、手書き文字は許容範囲が広かったわけです。
凉月、涼月は今後も、どちらも正解だとするwikipediaの見解に沿っていくことと思われます。例えば、日本を二ホンと呼ぶのと、ニッポンと呼ぶのと、どちらも正解だとするのと似た事情かと思います。
参考
http://jikototasha.blog.fc2.com/blog-entry-17.html

Q3,一部関係者の著書では、ニスイの凉月の文字が使われていると言われます。どんな書籍ですか
「海ゆかば…駆逐艦隊悲劇の記録」倉橋 友二郎(駆逐艦凉月元砲術長)著 徳間書店(1967年)
「軍艦防波堤へ―駆逐艦凉月と僕の昭和二〇年四月」澤 章(元凉月駆逐艦長・平山敏夫中佐の孫)栄光出版社(2011年)
「若松軍艦防波堤物語―戦いの記憶を語り継ぐ」福岡県人権研究所(2013年)など
{若松の軍艦防波堤の現地看板にも「凉月」の文字あり}

Q4,どうして軍艦防波堤の涼月、冬月は、コンクリートに埋められたのですか?
若松の港を守った軍艦防波堤に使われた船体のうち、特に「冬月」「凉月」の船体は、一部の人によってその鉄材が剥ぎ取られ、時にはガスバーナーを持ち込んで切り取る者もいたようで、ちょっとした現金収入になったようです。
昭和37年頃には内部にまで波が入り込む状態となり果て、そこにまた激しい台風などで暴風雨が吹き込み、崩壊の危機にあったようです。
そのため、崩壊防止と安全上の措置としてクレーン船作業によって撤去され、コンクリートを被せられました。工事に入る前には、10分近くも続く黙祷と、極めて丁重なお払いがなされたそうです。

Q5,鉄泥棒というのは、どんなことですか?
鉄泥棒を、どうして取り締まらなかったのですか?
鉄泥棒はとても悪い罰当たりな行為ではありませんか?
鉄泥棒、実は何の悪気もなく、釣りに行って魚を釣る程度の気分で、「ちょっと鉄取ってくるわ」と、気軽に自転車で出かけていたという話も聞きます。
当時の軍艦防波堤付近は、別に立ち入り禁止の立て札や看板があるわけでもなく、誰でも自由に入れる所でした。できた当時は狭い海に隔てられて、歩いて行ける場所でもなく、国や自治体による施設としての管理もほとんどなく、ちょっと小舟で渡れば誰でも勝手に鉄材を持っていけるような場所だったようです。
何も警告もないわけですから、そこから何を拾って行くにしろ、彼らに悪気などなく、砂浜で貝殻を拾った、釣りで魚を釣った程度の気分でしかなかったでしょう。
ましてや、かつては栄光ある帝国海軍の艦艇であったという話は、戦争で負けたのならもう自分たち国民の物だという意識になり、自由に取って構わないという気分が漂っていたとしても、誰も咎めるものでもなかったでしょう。
むしろ、困窮していた戦後の市民に対して、その身を削りわずかの小遣いになってくれる艦艇の亡骸は、現代風に言えばまるで自分の顔を飢えた人に分け与える「アンパンマン」のような存在だったのかもしれません。
高張力鋼という高価で強靭な鉄材を多用した第二次大戦時の最新鋭艦、冬月、凉月の鉄材は、利用価値が高く、廃材屋に高値で売れるので剥ぎ取られましたが、「柳」は大正時代の駆逐艦であり、その鉄材はあまり高く売れなかったのか、盗難被害は少なく、37年の撤去工事後も船体の形を残すものだったようです。
当時は軍艦防波堤を厳重に管理していた記録は見当たりません。そこに持ち込まれた意味も、今のように情報が瞬時に行き渡る訳ではなく、知らない人も多かったでしょう。
意味も示されず、かつ経済的に困窮した市民の立場で見るならば、打ち捨てられた鉄屑に等しい物を、小遣い稼ぎにチョロマカシたからとて、それは鉄材として有用に地域社会にスクラップ鉄をリサイクルしたとも言えなくもなし、「鉄泥棒」という悪名を若松市民に押し付けるのは、ちょっと名前が悪過ぎないかな?という気もします。まあ、ガスバーナーで切り取ったのはどうかとも思いますが。

Q6,主催者の方は、どうして軍艦防波堤に関心を持ったのですか。何かの関係者ですか?
主催者は、若松に生まれ育ちましたが、親戚縁者ではなく、直接の関係はありません。むしろ、戦争という話題には拒絶感、恐怖感を持って避けてきた世代です。
ただ、1999年、たまたま目にした地名の本に「軍艦防波堤」の写真が載っていて、こんなものが自分の故郷若松にある事を初めて知りました。(その頃私は三十代でした。)興味が湧き訪ねてみて、奇妙な姿に驚きホームページに写真を載せました。
その写真が色々な方の目に留まり現地を案内するうちに、ここを大切に思って熱意を持って訪れる方々との間に交流が生まれました。
当時は今ほどこの場所に注目がなく、現地に近い私がここを知らぬ振りすれば、ここを話題にする人は案内されない事を予見していました。ネット検索しても、ヒットするのは二件程度でした。
2000年には現実に災害で現地は大崩壊し、放置すれば確実にここは撤去される運命にある事を知りました。しかし知り合った人々はここをとても大切に思っていました。この人々との絆から今も活動を続けています。

Q7,凉月は、この沖縄特攻だけではなく、何度も大破したと聞きます。どんな被害を受けたのですか。
沖縄海上特攻の前年
1944年、昭和19年1月16日、宮崎県東方100km地点で米軍から攻撃受け、船は同時に前後を破断。約250人が死亡。ギリギリで沈没を免れ、ダルマ状態になった艦中央部のみが辛うじて呉に曳航される。
「造船士官や工員たちはその姿を見て一様に絶句、「なんで沈まなかったのか不思議」が一致した感想だったという」
引用下記より
https://wikiwiki.jp/kancolle/%E6%B6%BC%E6%9C%88
同年10月16日
宮崎県都井岬沖でまたも雷撃を受け2発が命中。新造したばかりの艦首の舳先から一番砲塔のすぐ前までの部分がもぎ取られた。死者2名、他被災。
これらの事実は、菊水作戦の件ほどは語られませんが、元乗組員の太田五郎さんらは、これらの大破で亡くなられた方々が浮かばれないと、ずっと案じられて、いつも手を合わせておられました。

Q8,若松区高塔山三艦慰霊碑には「柳、昭和二十七年 津軽海峡において(中略)艦尾を大破 大湊港外に擱座」とある。柳は第二次大戦時の松型のもので、青森の大湊で沈められたとのことだが、この記述は正しいのか?
柳は「昭和の松型駆逐艦、二代目柳、という誤解」が昔から存在します。高塔山の慰霊碑の記載もこれです。しかし失礼ながらこの記載は間違いです。
Wikiによると二代目、松型「柳」(第二次大戦時の艦)は全長100m。しかし若松の軍艦防波堤の柳は実測したところ全長86m。全く長さが足りません。かと言って艦尾が折れているわけでもなくきれいです。若松の柳は、第二次大戦時の松型柳とは全く違う長さの艦です。
また、松型、二代目柳は艦尾が大破したと記録があります。しかし若松の柳は、とがった艦首から丸い艦尾まで明瞭に姿が残っており艦尾は大破した跡は見えません。

(青森県大湊には、松型駆逐艦、二代目柳の慰霊碑が現存します。もし若松の慰霊碑記述が本当なら、艦尾が大破して「擱坐」(船が浅瀬にのりあげること)しているのを、わざわざ海から引き上げ、はるか青森から若松まで、大破して波に浮いていられない松型柳を曳航した?事になりますが、これはあまりに奇妙な長旅です。)

軍艦防波堤研究のパイオニア・戦捜録HP作者 望月創一氏の意見では
『二代目の「太平洋戦争に参加した」柳は、大湊で解体された。
(若松区の柳の)艦首形状は大正期以前の旧式艦特有のもの。若松区の柳は初代に間違いない。 』とのことです。

高塔山慰霊碑の記載は、ネットのなかった時代、いくつかの著書の記載を転記したものでしょう。この誤解は非常に広く広まって今も残っています。
参考
https://6309.teacup.com/maccha/bbs/535
若松の軍艦防波堤 柳は、間違いなく大正時代、第一次世界大戦で活躍し、第二次大戦時には既に除籍され、佐世保で旧制中学等の練習船として使われていた「桃型駆逐艦、初代柳」です。というのが、今は圧倒的な多数派の説となりました。

Q9,練習船として佐世保で使われていた頃の柳のエピソードはありますか?
こちらをご覧ください。旧制中学の生徒が、訓練で柳で一晩過ごし、体験したことを生き生きと描いています。
http://suzutsukimamore.web.fc2.com/siryo/siryo-yanagi-1.html

Q10,高塔山の慰霊碑は道が分かりづらかったです。地図はありますか?
こちらにあります。
https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1qidSTvkInyYfokx9kih6v-H7QWw&ll=33.90436444456181%2C130.79969020000001&z=18

Q11,軍艦防波堤へ行くのに何度も迷いました。タクシー運転手でも知らなかった。地図はありますか?
地図はこちらにあります。会が「複雑交差点」と名付けた、大変分かりづらい交差点で多くの人が迷います。ここさえ通過すれば辿り着けます。(地図参照)地元若松でも、まだ知らない人がほとんどです。タクシー利用の際も、この地図を紙に印刷して持たれるのが無難です。
http://suzutsukimamore.web.fc2.com/9.gif

Q12,「軍艦防波堤へ」の一節に、凉月の形にコンクリートの岸壁が曲がって見える、とあります。実際に凉月の形が見えるのですか?
凉月の一部の痕跡だろうと思われる、コンクリート壁のごくわずかな湾曲の痕跡が岸壁に認められます。
こちら↓をご覧ください。
https://6309.teacup.com/maccha/bbs/562

Q13,涼月の船体が、現地に一部見えるという話がある。本当か?
柳の手前のコンクリートの地面に、錆びた鉄材のごく一部が小さく表面にスレスレに見えている部分が確かにあります。しかしこれは(実測したわけではないのですが)位置関係からして凉月本体というよりも、柳と凉月の間に置かれていた事が設計図に残されている、「方塊」と名付けられた小さな四角い構造物ではないかと思われます。精密に測量し、非公開の設計図と照合すれば、さびた鉄の正体も判明するでしょう。
私は方塊と思っています。この「方塊」がそもそも何に使われていた構造物であるかについては、誰に聞いても定かな所はわかりませんでした。
「方塊」の存在を示す、防波堤全体の設計図は存在しますが、版権上出せないので、大まかな見取り図を示します。柳が凉月に接していたのではないことが分かります。
https://twitter.com/gunkanbouhatei/status/1127913764773187585/photo/1
https://twitter.com/gunkanbouhatei/status/1127913764773187585

Q14,百年前の、柳艦上で書かれた地中海日記は、どこで見られますか
活字文字に起こしたものはこちらです。普通は活字が読みやすいでしょう。
http://suzutsukimamore.web.fc2.com/siryo/kakiokosi.html
画像はこちらです。当時の肉筆の実物写真です。生身の温もりが残ります。ダウンロードしてご覧ください。日記筆者の家族の方からお借りして撮影しました。
http://suzutsukimamore.web.fc2.com/siryo/nikki.html

Q15,柳の設計図は、見ることができますか
こちらから閲覧できます。自由に使うことができます(著作権は放棄されません)。戦捜録HP作者 望月創一様に提供いただきました。
ミラー1
https://1drv.ms/f/s!AizdZ65Jwic4gaMg1VMb4rvZKrJDiA
ミラー2
https://www.amazon.co.jp/clouddrive/share/NEX8xabyoVlp8gSKYY2xh1Vyv711zaSUh1SYRE8srwU
旧古河鉱業若松ビル、北九州市立中央図書館、若松図書館には複写があり、依頼すれば閲覧できます。

Q16,軍艦防波堤は、なぜ若松にあるのですか?
北九州、中でも官営八幡製鉄所では、戦前から日本の鉄の多くを生産してきました。日本の産業の要でした。そこに出入りする船舶の安全を守ることは、焼け野原となった戦後日本の復興の礎として大変重要な事業でした。
比較的近かった佐世保港で整備された三隻が曳いてこられました。

Q17,軍艦防波堤は、他の所にもあるのですか?
日本各地に、軍用艦艇を流用したいわゆる「軍艦防波堤」が、かつて十カ所前後ありました。しかしほとんどが錆びて朽ち果ててしまい、鋼鉄製の船舶としてその艦形が視認できるのは、ほぼ若松の「柳」のみです。
ただ、鋼鉄製の艦艇による軍艦防波堤はほぼ見られなくなりましたが、コンクリートで造られた艦艇は,潮風に強く何隻かその形を留め、錆にやられないため未だに現役の防波堤として活躍しているところもあります。
参考
http://suzutsukimamore.web.fc2.com/siryo/siryo-seigo.html

Q18,軍艦防波堤ができて、若松の港にどんな影響がありましたか。
例えば、若戸渡船の乗り場は、防波堤ができる前は少しでも風が吹くと大波が響灘から打ち寄せて、乗り降りは危険だったそうです。
それが防波堤ができると、嘘のように波が無くなって乗り降りが安全になったそうです。洞海湾内の他の船着き場も同様だったでしょう。

Q19,コンクリート船というのは、どんなものですか?
戦争末期、物資不足で鉄材が極端に不足した頃、鉄材の使用を極力減らし、代わりにコンクリートで造られた船です。現在は広島県安浦港に防波堤として設置されている「第一武智丸」「第二武智丸」は、軍事用燃料の輸送にあたったそうで、(柳のいる)若松の石炭も運ばれた話があります。
広島県音戸・坪井漁港の防波堤として現役で使われているコンクリート製の被曳航油槽船は、自走はできず、普段は海中に半分沈められ、動くときは他の船に曳航されていたようです。
防波堤ではありませんが、山口県笠戸島に残るコンクリート船の残骸も、燃料などを貯蔵して普段は海中に隠され、必要な時に浮かせて曳航されたようです。
ただ、戦争最末期という時期もあり、コンクリート船が使われる機会は少なかったとも伝えらます。大変堅牢なコンクリートで念入りに造られたため、現在でもしっかりとした構造を残すものがあります。
その他、瀬戸内海の小島には、コンクリート製のドラム缶が、所々に残っているらしく、鉄材不足をコンクリートで代替を試みた先人の苦労の跡がうかがわれます。

Q20,岩国港の軍艦防波堤とは?
戦後、日本各地に計画された軍艦防波堤の中には、計画だけはされたが実現に至らず、実際の形跡が認められない所が何カ所かあります。岩国港の巡洋艦「平戸」もその一つで、実際には存在しないと思われてきました。
しかし、まだ未確認情報ではあるのですが、下記のような仮説が考えられています。
終戦時、平戸は既に除籍処分(船という扱いが消滅)となっていたため、財務省の防波堤用埋設艦艇一覧表という帳簿上には存在しなかった。帳簿上存在しないため、恐らくは廃材か何かの扱いを受けていたのかもしれない。しかし平戸の船体(の残骸)はおそらく防波堤代わりに、岩国港沖合に沈設されたか擱座していたか、その写真らしきものがネット上に存在した(現在は削除されている。)。現在現地にはもちろん既に存在しないようだ。
岩国港は戦後長い間米軍の管理下にあり、一般人は立ち入れず、存在の確認すらしようがなかったのだが、写真とその背景の山並み比較から、岩国港にあったと確信されつつあり、確認作業が一部関係者の手で進められるかもしれない。いずれ軍艦防波堤の歴史を塗り替えられる可能性もある。
https://twitter.com/ntfiv/status/1135451426765692928

Q21,長崎の川棚にも、軍艦防波堤が存在したらしいという事ですが、本当ですか?
第二次大戦後に全国十カ所ほど作られた軍艦防波堤のシリーズとは違い、それ以前に古い艦艇を防波堤として流用したものらしいです。防波堤工事で発見されたそうです。今はもうほとんど姿が見えませんが、地元の人々がその歴史を残そうとしているようです。
参考
https://twitter.com/gunkanbouhatei/status/1164878391192854528

https://twitter.com/gnoseminateipon/status/1096214267987034112

Q22,ほんの十年前まで、戦争を話題にすることはタブーでした、と配信の中で言われましたが、そんなにタブーだったのでしょうか。まじめに戦争や平和について教育する先生もいたようですが?
戦争を今のように、ゲームの話と絡めて身近に気軽に話題にできる世相ではなかったことを言っています。
確かに、真摯な教育者の皆さんなど、平和教育を丁寧にされている方々はおられましたが、
それすら、何一言いうにも慎重に言葉を選び、右や左の方々からのご批判を受けないように、ずいぶん気を使っていたものでした。
今のように、学校やマスコミとは別の、ゲームやネットの世界から戦争を知る若者が増え、
その中に散りばめられた膨大な歴史知識に接するようになったので、ようやく戦争の事実そのものに意識を向ける圧倒的な数の若者が増えてきたように思います。

それ以前は、右か左の政治主張のバイアスがどこかに入り込んだ、誰かに吹き込まれた知識で戦争を語っていたのではないかと思われてなりません。
自分の目と耳と手と足とで、戦争を調べ、真に自分の頭で考えた若者が十年前にどれほどいたでしょうか。今の数百万の数には到底及ばなかったでしょう。
ほんの十年前に、ガダルカナルやインパールを自分から調べようとする若者がどれほどいたでしょうか。
今のネット環境とゲーム、アニメの流行は、それを可能としています。
この自由な空気の中で己の知識欲の赴くままに調べ抜く若者達の空気と、十年前の雰囲気とを比較して、敢えてタブーだったと表現してみました。


Q23,戦争について話していたら、戦争はそんなもんではないと否定されました。体験していないから当たり前で、それでも知ろうとしているのに、話す気がしなくなりました。どう思われますか?
どこかの大学の先生が、ゲームの艦これで得た知識を答案に書いた若者を馬鹿にして、「こんな艦これの受け売りはする奴は「不可」にしてやったぞ」と、SNSでご立派なマウントを取っておられました。
せっかく興味を持ち、学び始めた若者がいるなら、どうしてその興味を育てていくことをしないで、自分の知識が唯一の正解だとひけらかし、若者の学習意欲を摘んでしまうのでしょうか。まさか艦これへの嫉妬ではないでしょうね?
この先生が御立派な歴史知識を教授された若者の中に、どれだけの人数が自発的に戦争事実に向き合い、自ら調べようとしたことでしょう。単位を取ったら忘れられた、のではないといいのですが。
少なくともその数は、艦これはじめ、戦争ゲーム、アニメファンの数百万の数の足元にも及ばないはずです。もちろん、そのすべてが望ましい学び?をしているかどうかはわかりません。
しかしたとえ1%しか、望ましい学びをしないとしても、少なく見積もって数万人の若者は、自らの手で、今まで一般学生達から見向きもされなかった、戦闘時代の詳細な史実に、自発的に真摯に向き合って、物凄い勢いで知識を吸収しています。私など太刀打ちできません。
今までの大人が、高尚な教壇から、大学の講壇から、このような若者を、この規模で育てられたでしょうか。
また、かつて学生運動が華やかな時代ですら、一つ一つの戦争事実をコツコツと学んだ学生がいたでしょうか。ネットの無い時代、多くは右か左の政治思想の受け売りをしていたかもしれません。
今、我こそが戦争体験や知識を持つからと、他者の意欲を圧し潰し、侮辱する行為は、自分が優れていることを称賛させたいだけの虚しいマウント取りが目的であり、肝心な他者と共に平和を創り出す行為を忘れています。
戦争の真の姿を知り、平和を地道に隣人と共に一つずつ探し求め、創る行為をしたいのなら、虚しいマウント取りではなく、若者の知識欲を伸ばし育てることをこそ、年長者は意識して行ないたいものです。
戦争で傷ついたものの心がわかるからといって、若者の意欲を摘んでは未来は失われます。
若者は、そんな人は相手にしないで、学ぶ心の通じる人と話しましょう。

Q24,柳以外に、戦時中の艦船で姿が見られるものがありますか?
防波堤ではありませんが、横須賀に記念艦「三笠」があります。これは、しっかりと保存されていて、見学もできるようです。 https://www.kinenkan-mikasa.or.jp/

Q25,軍艦防波堤三艦慰霊碑についての資料はありますか
若松海友会作成の資料を閲覧できます。高塔山慰霊碑の建立などに関わる貴重資料です。是非ご覧下さい。
http://maccha777.gozaru.jp/gun-siryo.html

Q26,軍艦防波堤について、短い解説書はありますか?人に簡単に紹介したいのです。
下記を印刷してご覧ください。A4版1枚です。
http://suzutsukimamore.web.fc2.com/gun-hayawakari.PDF

以下、少しずつ付け足していこうと思います。追加のご質問、ご意見お待ちします。この掲示板か、Twitter軍艦防波堤連絡会へどうぞ。
(2020年9月21日の語る会で使おうかと準備していました。9-23大分書き直しました。)
 

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